実在するものは何か

  実在するものが何か。私は、世界の中に生きているが、その世界は私の世界でもある。他人が私の世界にはいるが、世界は私の世界でしかない。私の存在に基づいて、私の世界が存在している。

  私が、いなくなった時に、世界がどうなるのか、私には確信は持てない。私が存在しなくなったとたんに、私の世界は失われる。その後に、世界がどうなっているのか。他人が、私と同様に世界を持つことは、間違いないだろうから、私が失われても、他人の世界は依然として残るのだろう。全人類が死滅しても、相変わらず、世界は存在するのだろう。その世界も、いつかは消滅してしまう可能性もある。この時、世界は無くなるのだろうが、無くなった後というものも、同時に無くなるわけだから、世界が消滅するということは理解不可能な状態だ。

  この世界に中に生きて、私の世界と、私を超える他人の世界、他人の世界を超える世界、人類が死滅しても残るであろう世界、そういう世界に生きているわけだ。

  私の世界は、主観的でありながら、私を超える世界そういう世界の上に基盤がある。この主観的でない世界、そういう世界が実在といわれるものだろうと思う。

  この実在の世界は、私には手が届いているのだろうか。目の前にある物体、キーボードを叩いているのだが、それは実在である。キーボードと名付けた物が存在するのか、キーボードというのは名であってそこにあるのは、プラスチックに金属の構造物だろうか。プラスチックや金属も名であって、そこにあるのは何らかの原子(さらに素粒子以下同じ)の集合なのだろうか。

  原子の集合を、私は見ることができるが、原子を見るわけではない。原子は、極めて概念的な存在だ。原子があると教えられたからあると思っているだけで、電子顕微鏡で見ることができるとしても、像を見ているだけなので本当にその像が実在を映しているかのは信じるだけの話になる。

  これは、見るということ自体の限界でもある。自分が見ているものがそのとおりにあるとは、限らない。原子の写真と言われても、その原子でさえ、実はさらに素粒子で構成されている。

  概念的な原子の存在を信じたとして、原子が存在するとすれば、世界は、実在は、全て原子だと考えると原子記号表にあるものが存在の全て、それらがおよそランダムに世界に分布している。それが、実在なのだろうか。こう考えると、世界からは多くのものが失われることになる。

  多くのものが失われた世界で、原子だけが存在している。そういう実在の世界、この考えは、物だけの世界なのだろうが、皮肉なことだが極めて空想上、概念的世界でもある。直接見ることができない原子の世界が、世界の全て。原子の世界では、その境界は、原子記号で判別される塊が方々にランダムにあるであろうから、境界というようなものはおよそできないだろう。世界は原子記号で分類されるがその分布が明確に表示できるような境界線のようなものは存在しない。雲や台風の境界は、あるようでない。同様に、世界には境界がなくなるだろう。世界に実在するものは唯ひとつ、世界でしかないのだろう。

  このような世界に、私がいる。そして私の世界の中で、このような世界が私を超える世界なのだろうと想像している。