バッハのシャコンヌと観想

  毎年、年末年始はクラシックを聴いて過ごしている。今年は、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータが私の流行である。
  これは、私なりの瞑想のようなもの。私は神を信じていないのだけど、バッハやブルックナーを聴くと何かそこにいそうな気がする。このことは、神社にお参りに行っても感じるのだけど、臨在感というのか。何かそうこにいそうな感じ、音楽の場合はそこに何かがありそうという感じ。
  シャコンヌやフーガを聴いていると、人生の始まりから終りまでを聴いたような気になる。
  不思議に思うのだけど、日本人は初詣に行って色々な願いをする。その時はその人は善良な人なんだろうと思う。人と人が集まると何故か、善良な人であってもそれが善良でなくなることがあったり、善良を信じながら結果として悪をなす。何故、人は善良で収まりきらないのだろうと思う。
  成人の日に新成人が騒いで警察に捕まったりしているが、そこには捕まった人間の勝手な正義があるのだろうと思う。自分なりの正義を振りかざしながら悪をなす。この小さな正義が集まって、また小さな正義も集まると大きな悪になるのだろうか。
  そうではなくて、正義など振りかざさなくても、本当の善意が集まることによっても悪が生まれるのだろうか。各々の善意は、見方を変えれば悪意に見えるのだろう。善意の枠があまりに小さいと、それ自体が善意であっても枠の外に対しては悪になるのだろうか。そうであれば、善を信じて悪をなすことの説明もつく。
  私自身、これまでの人生で悪をなしていること、本当の悪事ではないと自分では思うが、受けた人にとっては悪事であろうと思う。その時は善意であったことも含めて、後で反省すると無分別ということもある。
  そういう意味では反省の多い人生だ。
  それでも、私自身には私なりの語りがあり、その小さな語りで私の生活、世界が成り立っている。私の世界は、私のものでしかないが、そこでも公共の世界へと繋がりがあり、そこに私の善意が繋がっているのだが、そこには他人から見ると悪意にも繋がっているのだろう。
  本当の悪意や憎しみというものが世界へと繋がる方が、善意から生まれた悪よりも単純なように思う。そのような世界には、善と悪ははっきりと二分され、善悪二元論が成立しているだろう。
  私の思い、直感は、そのような単純な世界ではないと告げている。善や悪の存在は、アスペクト、視点の違いに過ぎないものであり、一つの出来事の裏返し、それどころかその出来事というものも、善や悪というようなものは抽象概念に過ぎず、実は存在しないのではないかとも思う。この点は未だに疑問でしかない。
  この悪意や善意というものも、臨在感がもたらすものだろうか。人の表情から読み取る生物的な反応、認知がもたらすものなのだろうか。そうすると善も悪も認知、生物学的反応の一つなのだろう。一定の外部刺激を善と、悪と受け止めるのだろうか。
  この善や悪の認知と、バッハやブルックナーの音楽が示すような祈り、善意、美そういうものは偶然的な人の傾向性、志向、一定の音の連なりを、祈りや善と、そう勘違いしているに過ぎないのだろうか。
  私の人生における善、悪どちらも、シャコンヌやフーガのように一つの音のつらなり、波紋、そして消えていくようなものだろうと思う。それが見る人によって、聴く人によって色んなアスペクトがあるのだろうと思う。だが、この音楽は、本当のところは他人が聴くのでなく、自分が奏でながら自分で聴き、そして演奏を終えるものだろうと思う。
  その音楽は良いも悪いもないのかも知れない。それでもそこには、何か音楽のようなものがあると思う。