何が存在するか。

    世界に存在する物を考える。世界には、素粒子が存在するだけで、素粒子が多く集まったところと、希薄なところがあるだけ。この考えすらも、実は素粒子の動きでしかない。意味のある物はなく、時間も実はない。過去も未来もなく今があるだけ。

   一方で、この考えはある。素粒子しかないという考えを持つ(考えを示す一定のパターンを持つ素粒子)、この「考え」というものは、今、ここ、という特定の物理的存在と異なり、何処にでも、時間を超えて「考え」というものが言語的に存在している。「考え」という概念は、物理的存在とは異なる。「素粒子」という考え自体が、「素粒子が存在するだけ」、という考え自体が、実は「存在する物の全ては物理的存在だけである。」を信じるということは、それ自体が、概念を信じており、前提にしている。

  概念は存在しないと主張することは、それ自体が概念であり、概念が存在しないことを信じないにもかかわらず主張することはできない。

  つまるところ、物理的存在のみが存在する物と主張しても、その主張は、物理的存在ではなく、一つの声明に過ぎない。声明の存在を否定することは、当の主張の存在自体を否定することになり、その主張は何処に存在することになるのか。主張する者は、自身の主張が存在しないことを主張していることになる。

  私は、実は存在しないという説明は、これを信じるとして信じているという事実は存在しないのか。事実でないと信じるということは何を意味するのか。

  存在論を考えると、物理的な存在だけを信じるということの限界を感じる。独我論のように、世界を観念の中に押し込めることにも限界を感じる。

  世の中の不思議を感じるのだが、何が存在しているのかさえ、ハッキリとしない。皆、存在しない物を、神とか、権威だとか、肩書きとかそういう空想を存在するものとして暮らしている。

  いつまでたっても、世の中に何が存在しているのか私にはハッキリとは分からないだろう。ぼんやりとした境界のない存在、そういう世界にいるのだろうと思う。

  それでも、宝くじでも当たらないかなと、考えるのは何でなんだろう。