排中律と境界

  ブラームスの二重協奏曲をワルター指揮、コロンビア交響楽団で聴いている。テンポ早めで聴きやすい。ブラームス晩年の曲で、しみじみとした曲調で初めて聴いた時は良さが分からなかったが、自分が歳をとったせいか、これも良いと思うようになった。

  排中律、A、又はAでない。世の中、そういうものと考えるか、どちらでもないという事はないと考えるか。世の中、確かめるまでは、A、又はAでないと決める事はできない。確かめるまでは分からなくとも、それはどちらかに決まっているはず。そう考えると、排中律が成立する。「味方で無ければ敵だ。」と言うと、どちらでもないという選択肢はないわけだ。観察する迄は、どちらでもないことは多い。敵も、味方も、観察して初めて自分がそう決めるのであって、初めから、敵と味方が存在するわけではない。

  境界というものは、線があって初めて成立するが、実はボンヤリとしたものだ。土地の境界であっても、ミリ単位に測量しても、実は毎回、誤差、器械を据え付ける事で差が生じる。境界は、有りそうで実は確率的なものだ。

  論理を手早く展開するには、排中律は便利で、物事を二分してデジタルに決まるのだが、世の中、そう線引きしないで、うやむやに済ます事で何とかやってることは多い。

  自分の価値とか、人生の意味とか、うやむやにして暮らしている。皆が夢を叶えるためにそういう価値感で生きているわけではない。オリンピックやワールドカップとか、有名選手の努力の物語を聞かされるのだが、自分に、関係のない世界と、比較する事を自然、強要されるのだが何ともやるせなさを感じる。

  私が、存在する事は疑問が無いのだが、何処に位置しているのか。どんな意味があるのか、そういう事が既に定まっているのか。それとも、観測する事でそれを観ることが出来るのか。

  それを観測しているのは、私なのだが、当の私が私を観る時、観測が出来るのか。

  観る事ができない物を観ようとしているのか。観ると言っても、人生や私を私が観る時、そこにあるのは、私の考え、思考が見出されるだけではないだろうか。私、観たと言ったものと、私が観た当のものは、同じではない。