めも

  世の中に、というか自分が世界と思っているもののうち、本当に存在するものは何かということを考えると、ほぼ何もないんじゃないか、というか原子、電子、素粒子のようなものが存在するだけの物理的な世界。
  実際に、人の眼で素粒子が見えるわけでないので、そういうものがあると信じているだけ。科学を信頼して、素粒子が存在することを信じているけど、私の知識で立証できるわけでも何もない。
  実在するものが素粒子だと思うと、世界の側にこれ以上に何かが存在するわけでもなくて、ものに名をつけている人間の側が存在するものを区分しているだけ、世界の側に区分される何かがあるわけではないように思う。
  そうすると、色んなものが存在すると思っているけど、実際の存在はもっとシンプルで何もないというのが、本当のところかもしれない。色んな制度、法律や国家、社会の枠組み的なものは、全て実は存在していない。存在していると考えるのは、人間の空想力の産物が存在している。出来事だとか、歴史というものは、空想力の産物、そういうことがあったという事を否定するわけではなくて、今あるわけではないので、過去にあったことを空想、イメージしてそれがあったということを信じているというわけ。
  そう考えると、世の中にあるもので本当にあるものなんて、イメージの産物、そのイメージを得るために皆、奮闘しているのだと思う。美味しいお肉だとか、ご飯というものはイメージでなくて、食べると美味しい、住み心地の良い家とかそういうものを手に入れるために奮闘しているのだと言う人もいるだろう。それは、本当に存在していると思う。確かに違いはある。それが、どれくらいの違いなのだろう。色んな物に囲まれて、一生手が届かないものもたくさんある。それを手にするのと、手にしないのとどう違うのだろうか。そこにもイメージがやはりあるんじゃないかと思う。延々と心地良いものを手に入れるために、働く毎日とか、奮闘する毎日って、そこに心地良さは本当にあるのかなと思う。
  何か、馬鹿げたことを、馬鹿げたゲームを自分で乗り気でやっているという感じ。何で、そんなゲームをしているのかというと、ゲームだから、外に楽しみというか、ゲームしか知らないからという感じがする。
  世界が素粒子で出来ているのであれば、自分も素粒子で出来ているわけだから、その素粒子がどういう組み合わせか知らないが、心地良いものを感じたり、生み出しているわけだ。素粒子の振る舞いからそういうことが、起きているのだけど、その素粒子の振る舞いは、つまるところその場限りで、外の素粒子の振る舞いとそんなに違いがあるのだろうか。行き着くところは、皆同じ、貴賎を問わず。世の中に、本当にあるものなんて、思っているよりも少ないような気がする。
  反対に、世の中にあるものは、人が思っているものが無くて、思っていないものの方がたくさんあるんじゃないかと、思う。