コロナ騒動で思うこと。

   世間は、新型コロナで大騒ぎしている。正月くらいからやばそうだなと思っていたが、現実のことに。カレル・チャペックの「白疫病」という中国原産の謎の病がヨーロッパを席捲するという話を年末年始にかけて読んでいたのだが、それが現実に。

  このところ、自分でパンを焼き始めた。以前から、焼いていたが買いに行くのがためらわれるので、自分で作ってそれを楽しむ。

  世界は、コロナ以後は大きく変わるだろう。職場でも、くだらない飲み会が無くなった。自分は前から参加していないのだが、もうこれで当分無くなるだろう。こんなものが必要だと思っていた世界から、少しは変わるだろう。こんなもの無くても、世界は回る。

  消費もそうだ、どこそこに遊びに行かなくてはならない。そんな必要など、初めからないのだ。これまで要らない物を多く消費しすぎていたのだろう。

 まあ、新型の車など初めから無くても良いものだ。多くの物の必要が、実は、そんなに必要、急務のことなどでない、これで分かるだろう。

  資金、体力のない者は、退場して人に使われる仕事に就くしかない。それも仕事があればだ。これから、資金力のない者は退場して、そこに大企業が侵食していくことになる。金持ちは、貧乏人の持っていた物を安く買い占めることができる環境になり、仕事にあぶれた労働者を安く使うことができる。これから、大企業が草刈りを始めて、寡占、独占が進むことだろう。この後、中国人が日本に来てインバウンドとか言って喜ぶことができる人は、金持ちだけ。

  パチンコ店に今でも出かける人が多くいるが、この産業、本当に必要なのだろうか。警察OBとのもたれあいがなければ、違法にしか見えないのだが。あの文鎮換金システム、そんなことがOKなのは、警察の発想だけだと思うのだが、あのシステムごと廃止できないものだろうか。

  これからも感染は拡大していくだろう。止まることなどない。それが、日常になる世界、そういうものが待っているのだろうと思う。運よく生き残ることができれば、この記事をまた読み返すことができるだろう。  

  宝くじを買う人がいるが、当たりを夢見ているのだろうが、今回のくじは、当たりが2%以上ある、その当たりは億どころか、死、かなりの高確率だ。それも、買わないとかいう選択肢はなくて、漏れなくランダムにやってくる。

  

子の引っ越し

 昨日に、上の子の引っ越しが終わった。今春、就職するので家を出る。下の子は、大学に通うために、既に家を出ている。

 これで、普段、家にいるのは私と妻の二人になった。家族4人でやってきたが、ついに、その解散の時がやってきたのだと思う。子には、楽しかったことを多くもらった。これまで、何よりも、貴重な時間だったのだ。

 これから4人が揃う時はあるだろうが、それぞれに違う生活圏を持ち、それが重なるのが、今の家ということになるだろう。

 それも、貴重な時間になるだろう。二人の子はあまり、そういうことは気にしていないと思うが、幾つか思い出す出来事があるということは、良いことだろうと思う。

 これから、子は世間にでるとこれまでの学校の世界とはまた違う種類の苦労が出てくると思う。その時、自分が大切にされていたということを思い出すことができれば、自分が大切な存在だと思うことができると思う。

 新しい自分の世界がこれから開けてくる。自分が切り開いた新しい世界だ。これからは、ずっとそうなるだろう。

 

排中律と境界

  ブラームスの二重協奏曲をワルター指揮、コロンビア交響楽団で聴いている。テンポ早めで聴きやすい。ブラームス晩年の曲で、しみじみとした曲調で初めて聴いた時は良さが分からなかったが、自分が歳をとったせいか、これも良いと思うようになった。

  排中律、A、又はAでない。世の中、そういうものと考えるか、どちらでもないという事はないと考えるか。世の中、確かめるまでは、A、又はAでないと決める事はできない。確かめるまでは分からなくとも、それはどちらかに決まっているはず。そう考えると、排中律が成立する。「味方で無ければ敵だ。」と言うと、どちらでもないという選択肢はないわけだ。観察する迄は、どちらでもないことは多い。敵も、味方も、観察して初めて自分がそう決めるのであって、初めから、敵と味方が存在するわけではない。

  境界というものは、線があって初めて成立するが、実はボンヤリとしたものだ。土地の境界であっても、ミリ単位に測量しても、実は毎回、誤差、器械を据え付ける事で差が生じる。境界は、有りそうで実は確率的なものだ。

  論理を手早く展開するには、排中律は便利で、物事を二分してデジタルに決まるのだが、世の中、そう線引きしないで、うやむやに済ます事で何とかやってることは多い。

  自分の価値とか、人生の意味とか、うやむやにして暮らしている。皆が夢を叶えるためにそういう価値感で生きているわけではない。オリンピックやワールドカップとか、有名選手の努力の物語を聞かされるのだが、自分に、関係のない世界と、比較する事を自然、強要されるのだが何ともやるせなさを感じる。

  私が、存在する事は疑問が無いのだが、何処に位置しているのか。どんな意味があるのか、そういう事が既に定まっているのか。それとも、観測する事でそれを観ることが出来るのか。

  それを観測しているのは、私なのだが、当の私が私を観る時、観測が出来るのか。

  観る事ができない物を観ようとしているのか。観ると言っても、人生や私を私が観る時、そこにあるのは、私の考え、思考が見出されるだけではないだろうか。私、観たと言ったものと、私が観た当のものは、同じではない。

  

  

進歩

  昨日、下の子が1日だけ帰省した。そして今日に帰った。家に子がいるのも、後、数年のことになるだろう。

  時々、思うのだが、社会の進歩って何だろうと、ニュースでは、コンビニが正月営業を止めると言ったところで契約停止になっていた。コンビニって名前は、本当に便利なのは誰なのか。24時間、仕事をしている人がいるのだが、その人にも家族がいて、人並みの生活があるだろうと思う。

  その生活は、深夜に働くことが、人並みなのだろうか。底辺と言われるが、三角形だと、底辺があるが、実際にはこの三角形のようなものには底辺がない。底なしだと思う。

  私達は、立ち止まると、生活が出来ない。働き続けなければ、生きることが出来ないのだが、コンビニで深夜に物を買うために、自分はどれだけ、働かなければならないのか。互いが便利さと言われている幻想を追いかけて、高い商品を買わされている。その簒奪された利益は、一部の人に集中し、それを羨むだけ。

  これが、進歩した社会なのだろうか。

子の旅行

  上の子が明日、ポーランドへ旅行に行く。この寒い時期にと思うが、この春には就職で上京し、私学の高校教員になる。今しかないそうだ。まあ、これからも行く機会はあるだろうと思うが学生で行ける機会としては、まあ最後になるだろう。

  これからは、独りでやっていくことになる。もうあれこれと口を出す歳でもないが、仕事を持っての一人暮らしは、けっこうしんどいだろうと思う。職場で良い人に当たればいいが、これだけは運、不運もあるから、入ってみないと何とも分からない。

  私も、初めて働いた会社を選んだのは見る目がなかったし、考えがとても浅かった。学生の頃には、将来はサラリーマンになるくらいしかイメージがなかった。何をして暮らしていくのが幸せなのか。どういう仕事が自分にあっているかそういうことを考える事ができなかった。今では、何でこんな仕事をしているのかなあ、とも思うが、一方でこんな仕事しかできないのかな、とか思ったりもしている。ただ、金を持っていたら続ける仕事ではないなと思う。

  そんな思いをして欲しくないから、就職の際にはいくらか口を挟んだが、私が言う意味が分からないようだった。本当にやりたい仕事ということが、何なのかそれを見つけるということはとても難しいだろう。私は、いまだに分からないと言っていい。年齢と体調を考えると、出来る仕事というものが既に限られてしまう。結局、見つけることは私にはできないだろう。

  自分が出来ないことを、人に期待するのは過度なことかもしれないが、そういう環境は出来るだけ揃えるようにはしたつもりだが、理解してもらえていないけど。

  卒業旅行楽しめればいいなと思う。

  

絶対的、相対的な価値、どっちが正しいか。

  ワルターベートーヴェン交響曲第4番を聴いている。sacdなのだが、とても音質が良い。低音が効いているけど、ベルリンみたいにうるさい程でなく、ほどほどに良い感じ。この人の演奏は楽しそうなんだよね。第5番でさえ楽しそうに聴こえてくる。

  プラトンの「テアイテトス」を読んでいるんだけど、人間は万物の尺度、物事は相対的なものだ。という主張を軸に話が進む。紀元前に相対的な価値と、絶対的な価値の存在が議論されている。誰でも、知恵とか、賢さって何だろうと話たことがあると思うが、それを真剣にやっている。

  自分の価値とか、人生の価値とか、相対的に考えると、無価値、若しくはちっぽけなものと思う。ワルターのように、自分の人生の通知簿に優とか付けることが出来ればいいけど、そういう人、社会的に単に成功したということでなく、好きなことをして、その中で才能が開いたと自分で言える人、そういう人と自分を比較してしまうと、無価値な人生やってるなと、なだめすかしながら、自分を肯定というか、諦めるほか、ないのかなと思う。

  人と比較して、自分の人生を考えるなんて意味がないことは、明らか何だけど、他人には成れない、どこまでも自分何だから。それでも、座標が欲しくて他人と比較してしまうんだよね。自分は、ここにいるんだと、位置を確かめたくなる。

  相対的に自分に価値があると、思ったところでそれも勘違いが多いんだけど、その相対的に見る自分って、絶対的な視点でしかない。そこは相対的にみれない。そこを相対的に見ると、一段下がってまた、相対的に見直す作業を延々とすることになる。

  結局のところ、自分に関しては、絶対的な価値でしか見れないんだけど。その絶対的な価値って、視点としての自分でしかなくて、自分という容器に何が詰まっているのかなと、思って覗き込んだら、底が抜けた空っぽの容器にかろうじて、物が幾つか引っかかってるのかと思うけど、それさえも、自分の物ではなくて借り物、いつかは失くしてしまう物しかない。良い記憶とかそういう物でさえ。

  この絶対的に重要な自分が、空っぽの容器でしかないことに気がついて、久しいけど、容器に詰める物は大して見つからない。延々と見つからないのかなと思うけど、そこを諦めて、根拠のない僅かな希望、まあ奇跡みたいなものだけど、そう思いながらやっていく。

  少しは、音楽とか、小説だとか、良いと思うこともあるからね。こういう物を詰め込んで、具にしてやるしかないのかな。

人生の意味

  ワルターベートーヴェン交響曲全集を購入した。とても高いが、それだけの値打ちがあると思う。音楽が伸びやかで楽しそうに聴こえる。第8番はこんなカッコ良い曲だったのか。と思うように、この人が指揮していると違う曲のように聴こえてくる。

  人生の意味を考えることがある。ついこの間、自転車で転倒して顔をケガした。運が悪いとこういうことでも死ぬよなと思った。また、それで仕方ないとも。突然、死ぬ事もあるわけだが、何で生きてきたのかな、これをしたよとか言えるものがあったら良いなと思うわけだが、そういうものがあるわけでもない。良いこともしていると思うが、これです。と言えるものはない。一方、後悔は幾つもある。

  意味という言葉の意味が分かれば、人生の意味と言った時に、その意味が分かるのではないかと思い、意味の意味について幾つか本を読んでみたが、意味について始めから知っている以上のことはなかったように思う。

  人生の中で、今、音楽を聴いているのであればそれが人生の意味だし、ブログを書いているのであれば、それが意味、つまらない仕事を毎日しているなら、苦役という意味、何か、今していること以上の意味、そういうものは無いのだろうと思う。

  もし、今から死ぬ事になりますと言われれば、総括的な反省をして、それが人生の意味と踏まえて、死ぬ事になるのだろうが、その反省の基には多くの忘れた出来事があるわけで、そちら側にも意味はあるはずだがいかんせん覚えていない。

  人生の意味は、多くの忘却の中にもある。記憶している出来事はほんの僅か。そこに救いや意味を求めても死ぬ間際の自己満足なのだろう。

  淡々と、人生を受け入れて、今の楽しみがあればそれを楽しみ、苦役は、苦役としてこれを続けて行く。凡庸な人生だが、誰に認めてもらう必要もない。

  みんなここで、人に認めて欲しいのだろう。だから、意味を欲しがる。それを、これです。と言う人に従ってしまう。誰もそんなことを知らないし、自分が考えられないことについて、知っていると言う人の言う事が正しいのか、自分で判断出来るわけがないのに。だから、信じろと言われてきいてしまう。考えなくて済むから。

  人に認めてもらう意味は、結局、自分が他人に認めてもらったと自分で認める手段、そういう構図だ。

  自分が独りで存在していることに気がつけば、人に認めてもらう必要はない。犀の角のように独り歩もう。