世界と私2

 私は、世界の中に生きているのだが、世界の中心である。私は、世界のほんの小さな存在、色んな意味で小さな存在である。無名の人、普通の人、大衆一般に埋没する存在に過ぎない。

  私は、この社会に埋没したある特定の視点から、世界を眺めている。この私の眺め以外に、私に世界は存在しない。この世界は、私の視点からしか眺めることはできない。
  世界を物理的に記述しようが、歴史的に捉えようが、それを理解しているのは、結局は私の視点からのことである。客観的な記述は、私以外の様々な視点においても同意が可能な内容が含まれているということに過ぎない。私に、私以外の視点を与えるわけではない。
  この絶対的に世界の中心たる私が、他者からするとちっぽけな存在であり、私の存在は環境の一部にすぎない。このことは、私から見て他者が環境に過ぎないことの裏返しになる。
  この世界の中心である私が、世界を眺めて自身を小さな存在と考えるのは、おかしさがある。私の世界の鼎立は私の存在に1人かかっているのにかかわらず、その存在を小さいと考えている。私の視点としての絶対性と、社会的地位、評価というものを、私を私という対象として眺めた時に同一の次元に混同して、同レベルで考えると、私の視点としての絶対性、私の意義を失くしてしまうのだろう。
  この時、私は世界は、私の世界でなく、他者と共通するフィールドの世界にあることを意識している。他者と共有する公共世界を、私の私的世界観からは別に前提している。その時に、私はちっぽけな存在だと自分のことを考える。
  何故、自分が公共世界においてちっぽけな存在と考えるか、それは誰も私を褒めたり、もてはやしてくれないから。自分が少しでも偉大だと思えるのは、他者が私の存在を大きいと考えているであろうと、自分が考えている時だ。
  私の世界において、私が、自身の存在の大きさを対照するのは、公共世界における他者の振る舞い、そこに一喜一憂しているのだ。他者の振る舞いを引照点として自身のおかれている世界における位置を特定しているのだ。
  まあ、これは、平たく言ってしまえば給料明細をみれば自分が自分に相対している世界からどのような評価を受けているのか、簡単に知ることができる。もっとみじかには他者の言葉づかいや態度というものから、誰もが自分の位置を特定している。そこに喜びや悲しみを見出す人が多い。
  私の存在を、私がどう私を考えているか、このことは、私が私への他者の振る舞いをどう考えているかに拠っている。自身の位置を世界の中で特定するには、私への他者の振る舞いを座標として使用する。
  私は、私の世界のただ1人の住民であるにもかかわらず、そこに公共世界での座標を必要としている。そのようなものが必要なのだろうか。ただ1人、世界を体感できる絶対的中心であるのだが、そこが公共世界のどこなのか常に気にして過ごしているのだ。
  公共世界のどこに位置しようが、私の絶対性、私が常に私の世界において中心にいるという事実には全く変わりがないにもかかわらず。
  他者がちやほやしてくれようが、くれまいがそれをどう考えるか、自分の世界では、全く私の勝手のはずなのだ。そのようなことを気にする必要は、公共世界における生存上の条件を満たす範囲で行えばそれで良い。それ以上の公共世界での位置づけを、自分の世界で行い、期待をして、そこに失望する。そして、失望の上に自分が小さな存在だと考える。
  世界は、私から見た風景。その風景に私は視点としてはあるが、私自身は写らない。自分の撮った写真に自分が入っていないのと同じこと。ところが、公共世界の座標の位置づけというものは、私が入った、写りこんだ写真、世界を横から見た写真を撮っていることになる。今流行りの自撮りを観念的にしているようなものだろう。
  自撮りをして写真うつりが良いか。そこに一喜一憂する。もう自撮りを止めればいいのだろうと思う。何か安心を得るのに、他人を引照点にする。他人を引照点にしなくても、私の絶対的中心性は変わらないのだから、公共世界上の座標のどこを放浪しようがそれで良いのではないかと思う。
  単純な、偉さ、そういう気分を味わうことに喜びを見出すのを止めれば、私の世界は、また世界の見え方は変わるのではないかと思う。