主観と客観

  連休も、明日でお終い。連休中は、トマス・ネーゲルの論文集を読んでいた。
  自分の理解をまとめるために、トマス・ネーゲルの読書感想を少し書こうと思う。
  彼は、主観と客観性について語っているのだが、概略は以下の感じ。正確な理解ではないと思うので、興味のある場合は、直接、彼の本を読んで欲しい。
  客観性と主観性は、人が持つ視点の両極にある。視点が二つというよりは、同じ視点の両端にあるようなイメージ、彼の表現ではないが、左目と右目で遠近感があるように見えるように、両極から物事を見ることができて初めて、ものを正しく見ることできる。
  世界は、客観的に存在するものや、事実というものがある。それは、主観的な視点から捉えたものや、事実とは異なる。事実は、主観とは別のところに客観的事実というものがあるように思える。
  が、客観的なものの見方というものも、主観から離れて見ることができているわけではない。主観側よりも客観側に寄って見る状態にあるその程度、人が見る以上、人の視点を離れているわけではない。物理学の数式のような表現によっても、それは程度の問題であり、完全な客観性を得ている訳ではない。
  世界は、主観が提供しているように見えるということも、これも一つの事実。木の葉っぱが緑色に見えるのは、人間の主観的な現象なのだが、(虫や犬ならば、違ったように見えよう。)この主観的な視点で起こっている、見え方というものも、客観的に存在すると言える。そうでないならば、人間の世界に色はない。
  世界の側に、色というものがないとしても、人の世界に色があるのは、それ自体を認める必要がある。絶対に、人間の手が届かない神の視点があると考えると、それが究極的な事実のように思えるが、それよりも、主観を含めた色のある世界というものを客観的に認めよう。
  客観的に考えると、人生は空しい。主観の世界では、世界からみれば実につまらない出来事を大層な一大事と考えている。これも、遠近法で、どちらの視点も必要。生きるためには、主観が必要なのだ。ところが、主観に拘泥していると、実につまらないことを気に病むことになる。世界から見れば、自分の失敗など、大した出来事ではない。そう考えることも必要。要は、バランス感覚なのだ。
  まあ、大体、こういう感じのことが書いてあったように思うのだが、このあたりデヴィッドソンの意見で、人が見て存在していると考えるものが事実ということは確率的に確からしい。妄想や、幻覚であることは、なくはないが、確率的に低いことなので、多数の者で観測できる多くのことは、現実と考えないと、確率的に起こりえないようなことを考えることになるので、それよりは、その場合は事実と考えよう。そういう意見に何か、似ているところがある。どこが似ているかは、よく考えていないのだが直感的に共通するところがあるように思う。客観性の基準をデイヴィッドソンが言及しているということなのだろうか。このあたりは、いつかまた意見をまとめようと思う。

  以下は感想
  自分の人生を見て、実に空しいものがあると感じることがある。年齢的に総括できるような歳、予想がつく歳に立って、そう客観的視点に立つとそう思える。
  主観的立場では、その空しい人生において一喜一憂してあたふたしているのだが。
  客観的立場に立てば、それでも生活するために、自分には当面やらなくてはいけないことはある。主観的にはそれに満足しておこう。

彼の本 「コウモリであるとはどのようなことか」、「どこからでもないところからの眺め」
どちらの本も、かなり難しい。私は、言っていることの半分もしくはその半分も理解できていないと思う。
でも、細部は読み飛ばしても、なんとなく言いたいであろうことは分かる(気がする)。誤解している可能性も結構あるが、それは読み返ししての、自分の理解の不足と間違い探しと思えばそれで良いと思う。
題名が面白いので、興味が出て買っただが、気力が続けばけっこう面白い。