アイデンティテイというもの

  アイデンティティという言葉、どうも昔からこの言葉が好きではない。この言葉を言う人は、単純にアイデンティティという物が存在しているとでも思っているのだろうかと、昔から思っていた。
  自分を自分たらしめているもの、そんな唯一つのものなどないし、様々な面が自分だとしても、その面なんて、二次元的に切り分けることができるようなものではない。
  アイデンティティを確立するとか、そんな確立したものがあるなんて本気で思っているんだろうか。自己は、時間経過で変化するし、その一瞬でさえも決まった自我などというものはない。自我というようなひとつの幻想、そのようなものがあるのであろうと思い込んでいるだけ。自分が今見ている世界そのものが、自我であって、今聴いている音楽も自我、今見ている世界の内の一部が自我で、他者は自我ではないとか、今、自分が見ている他者は自分の目を通して見た他者、それも私の一部、こういうと独我論のようだが、世界を見ている自分と、その見ている自分の世界は同じものだ。世界観というものは、自我そのものでしかない。そこにアイデンティティを確立せよと言われるのだが、世界は初めから自分そのものでもあるし、そこに築く自我というようなものはひとつの信仰でしかない。
  自分に、まわりの人に私はこういう人ですよというキャッチフレーズをつけて、箱に入れて差し出すようなものだ。本当にそんなものがあるとは私には思えない。
  だから、昔からアイデンティティという言葉を聞くと信用ができないなとしか思えない。心理学解説が始まるのかという感じを持ってしまうのだ。
  便宜上、アイデンティティはあると考えると、措定すれば便利なんだろう。みんなそれが便利だからそう信じていなくても、半分信じてる振りをしているのだろうか。
  そんなものは無くても何にも困りはしないと思うのだが。