世界の姿は

世界内存在である私は、世界という中での存在である。この世界は、私という役割、社会的位置づけから見た世界であり、その中に私は存在する。
そして、この世界という言葉は、世界から世界を文節化する。
何が言いたいかというと。世界は、言葉によって切り取られている。あなたや、私が世界と言う時、その世界は世界の一部から世界を切り離し、世界という全体の中から、私という文脈によって理解される世界のみを切り離し文節としている。
世界と私が言う時、全宇宙含めた物理学・天文学的世界と、私の世界、男の世界、趣味の世界と言われるような文脈から見た世界、この二つの世界があるのだが、これから話すのは、主に私という文脈から見た世界のことだ。
「世界」という言葉を使う時、私は私視点の世界の存在を肯定、前提とする。世界は、私の言葉によって、世界から私の世界として切り取られ、私の世界という限定なしに、世界として前提づけられる。
一方でこの言葉が、世界を切り出すのだが、切り出す道具である言葉と、私が切り取った世界は別物だろうか。
私の言葉が世界であり、世界は私ではないだろうか。私は、私が理解している世界というものを言葉によって描き出すのだが、この言葉が世界ではないか。感情である悲しみ、怒りも言葉にして初めて認識、文節化され、私の世界が悲しみに染まり、怒りであることが分かるのでないか。
世界が存在するのは、確かだが、世界の中に何が存在すると、あなたは考えるだろう。
世界の中には、私や、あなた、このキーボード、今、聴いている音楽がある。この存在するものを切り分けているのは、私ではないか。私が世界を切り取る際に「名」を与える。この時、この事物は存在を始める。世界は存在しているが、世界の中に何が存在しているかを特定するのは、この名づけにおいて行い決定されている。
世界に何が在るか。この名づけにおいて決定されているのであれば、世界に存在するものは、名づけ、言葉そのにあるのでないか。
では、世界で名づけられていないものは、存在しないのか。未発見の昆虫は世界に存在しないのか。新種の生物が発見されることが可能なのか。
この問いの世界は、私の世界ではない。私の可能的世界であり、私もこの可能性は否定しない。むしろ世界は、私の知らないことの方が絶対的な多数である。
ただ、私の可能的な知識の限界が私の世界の限界であり、私の可能的な知識の限界とは、私の言葉の範囲なのである。
私は、可能的な世界内にあるが、それでありながら私の全可能性をもって私にとっては私が世界の限界となる。
こう言うと、独我論のように聞こえるが、世界を規定するものが私の言葉であれば、私の言葉は私一人のものではない。言葉は、文化であり、私が使用している日本語は私の環境において習得され、規則、慣習化している日本語である。この言葉を使用し、世界を文節していく限り、私の世界であっても、この言葉を使用し表現するならば、私の世界は、私の外部による規則、規制に対応している。それ故、他者が垣間見ることはできる。
私の言葉は、必ずしも私が意図するとおりに他者に伝えることはできない。むしろ、私自身が何を意図しているのか、明確に言葉にすること自体が難しい。他人にやって欲しいことを、自分がやりたいことを明確にすることはとても難しい。
私の世界は、言葉により他者の世界とも繋がりえるが、言葉による断絶も、超えがたい言葉の壁というものも存在する。
エヴァンゲリオン人類補完計画では、他者との心の繋がりを求めていたが、もしそのようなことが現実にできたとしたら、言葉というものは意味不明の音と成り下がってしまうだろう。他者との意思の疎通の手段が言葉であるが、瞬時に理解される意図のようなものがあれば、言葉は必要がない。名づけも意味をなさない。
世界は、私の言葉による私的領域でありつつ、それを他者との交渉により、言語化し表現化することによって成立をしている。他者の存在がなければ、言語それ自体が成立しない。それ故に、言葉なしの他者のない私の世界や、私だけの独り言などいうものは成立しえない。この意味で、私の世界は私で閉じながらも、世界にむかって開かれている。私がなければ世界は存在し得ないし、世界なしに私も存在し得ない。相互依存の関係にある。