自殺が悪であると考えること、人生に意味がないと考えること

  自殺は、悪いことだと考えている。そのことは、以前の記事に書いたとおり。その論旨は、生命の本質である生きることを否定する行為は、悪。いたずらに、自身や他の生命の存続を目的とせずに生き物を殺す行為は、忌避されていること。直感的に嫌悪感のある行為であること。悪は、人の価値観によるものであるので人の直感による忌避、嫌悪は、それ以上の理由を必要としないこと。
  一方で、「人生に意味はあるか」と尋ねられた場合には、私は、「人生に客観的な意味はない」、そういう答えを持っている。主観的に、自分の人生にどんな意味づけをするかは、人それぞれなので、そういう意味では、人生の意味は、人それぞれが決めることと思う。それ以上の客観的な人生の意味、人生と言われるものの普遍的な意味があるかと言えば、それはないだろうと思う。
  客観的、普遍的な人生の意味が存在しないのは、人生を横から眺める視点。そういう者は存在しない。少なくとも、自分ではないし、人の立場ではない。人生は、その中を生きるのであって、外に立つことができるものではない。それ故に、人生に客観的な意味を持たすことなどできない。
  神のプログラムとして、神の目的達成のための手段として人の生が、人それぞれに用意されているのであれば、人生には客観的意味が用意されていることになる。その意味は、人には神の栄光という以上の意味は理解できないであろうが。
  人生の意味を、客観的に捉えるには、それに見合ったスケール、定規が必要なのだ。この定規は、人生を測ることができるのだから、人生を盤上に乗せることができるようなものでなくてはならない。このようなものは、私の人生には存在しない。
  前置きが長くなったが、自殺が悪であると考えることと、人生に意味がないと考えることはどのように折り合うことができるのだろう。人生に客観的意味がないのであれば、自殺が悪だと客観的には言えないのではないだろうか。
  客観的な意味のない人生に自ら終りを告げる行為は自殺なのだが、そうであれば、客観的には自殺という行為にも意味はないということにならないだろうか。
  自殺に意味がないのであれば、悪たりえないのではないかと思う。一方で、自殺は生命の前提を否定する行為、無目的な殺し自体が直感的な悪と考えると、無目的という点では悪になる。
  ただ、そこには神のような客観的な視点ではなく、人の主観的な、直感による悪、主観的な視点ではあるが、多くの人に共感する直感、多くの人々の間で共通した主観性が担保できるであろう点では、間主観的な意味がある。
  「客観的に人生に意味がない」と言う際の客観性と、「客観的に自殺は悪だ」という際の客観性の違いには、客観的という語の意味が異なるのであろう。人生に意味がないという考えは、神の視点にたって客観性を考えているのだが、自殺は悪だという主張の客観性は、主観に基づく価値、その価値に基礎をおいた客観性であり、神の視点ではない。人の価値観という普遍性を利用した客観性の主張になるだろう。
  そう考えると、自殺は、神の視点による客観性から考えると、悪でもないということになるのかと思う。この場合の神は、個別の人に関心なく、悪や善というような価値も持たない客観的存在ということになるだろう。
  また、自殺は、善か悪かという問いは成立するが、人生は善か悪かという問いは成立しない。人生は、自殺のように、善悪を問うような行為ではないのだろう。行為の集合体が人生なのであろうが、それを善悪問うことは、最後の審判になる。そこで問われているのでは個別的な人生であって、普遍的な人生そのものではない。
  自殺が悪だという主張は、主観性の強い主張だ。客観的視点からは、そもそも悪という概念自体が客観的でない概念で、初めから価値観に基づく主観性の強い概念なのだ。
  人生に意味がないと考える時、その時、自殺を考えるのだろうと思う。人生には客観的に意味がない上に、主観的にも、「人生に意味がない」と考えると、そこに自殺が入る余地が生まれるのだろうと思う。客観的には悪いことはないと。
  再度考えるのだが、人生には、客観的に意味がないのだろうか。生きるという行為自体に意味がある。ここにいう意味は価値ということだが。何よりも、生きるということ。生存それ自体が価値ではないか。
  「客観的に、生きることに価値があるか」と訊かれると、「価値」を問うということ自体が、善悪を測る、尋ねる行為だと。価値を問うという行為に対しては、「「客観的に」価値を測る定規」は、人なのだと。
  意味や価値を問うということが極めて人間的行為なのだが、そこで、何度も問いを繰り返すうちに、人は虚無にたどり着くのだろうと思う。意味の意味をいくら尋ねても、その意味をさらに尋ねることができる。最終的には、そんな行為には意味がない。となり、虚無にたどり着くのではないかと思う。
  ネーゲルは、人生に意味がなくても、人はアイロニーを持って生きることができると主張している。このアイロニーの意味は図りかねるのだが、客観的な意味はなくとも、それを知りながら、四苦八苦しながらも人生を楽しむことも出来る、そこに客観的な意味がないと結論しながら。
  こういうところでは、人は、アイロニーな存在なのだろうと思う。