絶対的、相対的な価値、どっちが正しいか。

  ワルターベートーヴェン交響曲第4番を聴いている。sacdなのだが、とても音質が良い。低音が効いているけど、ベルリンみたいにうるさい程でなく、ほどほどに良い感じ。この人の演奏は楽しそうなんだよね。第5番でさえ楽しそうに聴こえてくる。

  プラトンの「テアイテトス」を読んでいるんだけど、人間は万物の尺度、物事は相対的なものだ。という主張を軸に話が進む。紀元前に相対的な価値と、絶対的な価値の存在が議論されている。誰でも、知恵とか、賢さって何だろうと話たことがあると思うが、それを真剣にやっている。

  自分の価値とか、人生の価値とか、相対的に考えると、無価値、若しくはちっぽけなものと思う。ワルターのように、自分の人生の通知簿に優とか付けることが出来ればいいけど、そういう人、社会的に単に成功したということでなく、好きなことをして、その中で才能が開いたと自分で言える人、そういう人と自分を比較してしまうと、無価値な人生やってるなと、なだめすかしながら、自分を肯定というか、諦めるほか、ないのかなと思う。

  人と比較して、自分の人生を考えるなんて意味がないことは、明らか何だけど、他人には成れない、どこまでも自分何だから。それでも、座標が欲しくて他人と比較してしまうんだよね。自分は、ここにいるんだと、位置を確かめたくなる。

  相対的に自分に価値があると、思ったところでそれも勘違いが多いんだけど、その相対的に見る自分って、絶対的な視点でしかない。そこは相対的にみれない。そこを相対的に見ると、一段下がってまた、相対的に見直す作業を延々とすることになる。

  結局のところ、自分に関しては、絶対的な価値でしか見れないんだけど。その絶対的な価値って、視点としての自分でしかなくて、自分という容器に何が詰まっているのかなと、思って覗き込んだら、底が抜けた空っぽの容器にかろうじて、物が幾つか引っかかってるのかと思うけど、それさえも、自分の物ではなくて借り物、いつかは失くしてしまう物しかない。良い記憶とかそういう物でさえ。

  この絶対的に重要な自分が、空っぽの容器でしかないことに気がついて、久しいけど、容器に詰める物は大して見つからない。延々と見つからないのかなと思うけど、そこを諦めて、根拠のない僅かな希望、まあ奇跡みたいなものだけど、そう思いながらやっていく。

  少しは、音楽とか、小説だとか、良いと思うこともあるからね。こういう物を詰め込んで、具にしてやるしかないのかな。