欲しいものについて

  色々と欲しいものがある。気になりだすと欲しくなるそういうものだ。クレンペラーマーラー交響曲全集、ワルターのベートーベン交響曲全集、どちらも欲しいが1万円超え。

 ダホンの折り畳み自転車も何年も前から欲しいと思っている。車の乗り換えも今年がチャンスだったが、これは金がかかりすぎるのであきらめた。

 色んなものを持つと、それがもったいなくて捨てることが難しくなる。一方で、全てを保つことは出来ない。捨てることが必要。

 そもそも、何も持たなければ幸せなんじゃないか。何も悩まなくて、欲しいと将来の不安そういうものとの葛藤も無くなる。

 執着こそが、不安や恐怖の根になる。その執着が定着すると、今よりも過去にこだわり、今よりも将来に目が向くことになる。その結果、今を楽しむことができなくなる。

 仏教的な発想だが、そのとおりだろうと思う。日頃、物事に執着しないように考えているのだが、執着は考えの型というよりも、傾向性、性格に近いところにあると思う。自分でコントロールできるようでもあるが、できないものでもあると思う。極端な話、執着しないことに執着することもあるだろう。

 健全に、執着しないで、欲しいものは欲しいと思い、執着していると自分で気づく時には、その執着が自分にとってどれほど大切な出来事なのだろうかと、距離を置いて眺めてみる。このマーラー全集を手にして楽しんでいる自分を想像すると、そのものが欲しくなるのだ。ただ、本当にクラシックを楽しんで聴いている時は、あまりない。いつもどこかに気がそれることが多い。そういうことも知っている。

 欲しいものを手にしないで、がまんして生きていく人生、それも貧しい気がするし、欲しいものは手当たり次第に手に入れようとする人生、それも貧しいように思う。

 そう、適当に調和した人になりたいと思うのだが、この適当がどのあたりにあるのだろうか。そういう相対的な位置に適当があるのだろうか。そういうことさえ分からない。