言葉と世界

言葉から世界に迫る、というか言葉からしか世界を理解できないというか。
世界を理解するために、哲学を学ぼうとすると、世界を理解するために言葉で世界を考えると、世界は言葉に分割されていく。世界を言葉で理解しないままに、そのままに世界を理解することもできない。言葉そのものが、自分を構成している。普段何げに考えていることや、感覚や価値観というものも言葉によって作りあげられた構成物であるからだ。物自体を人が感覚することができないように、感覚や価値観というものも、言葉によって生み出された部分、構成物であることを理解しないままに、それがそのままにあると思うと、それはない。
言葉が指し示しているものは、指し示されたそのものではない。固有名詞であろうとも、それは抽象化された名であり、そのものをではない。この言葉で何かを考えると必ずそこに行き当たる。
抽象化された世界が言葉であり、意識しなくても、具体なものを考えているところでも、そこには抽象化の作用が言葉を使うことにより働いている。
この抽象化された世界に、人々は住まっているのだが、そのことに気がつかないままに、自分の抽象化した世界が現実であると考え、おのおのに自分の現実を他人に押し付けている。どうしても、この世界と世界のぶつかり合いは、生じているのだが、そこに重複があるように見えるのだが、現実にはそこに重なり合いはない。重なったように感じているのだが、そこには自分の思い込みが存在するだけであり、本当に重なっているのかどうかは確認のしようがない。重なっていると考えても、2枚の紙が上下に重なったようなもので混じり合うことはない。
この重なりの勘違いをもとに人と人は話をし、その重なりを確かめようとする。それは永遠の勘違いであるのにかかわらず。
勘違いを続け、勘違いをしたままに自分の世界に幸福を築きあげようとする。
この勘違いを、勘違いと知りながら、この生を送り、最後に勘違いから開放されるのであろうと思う。
世界は、存在するのだが、誰もその姿を本当に見ることはできない。その姿を見たと思っているのだが、それは勘違いのままにある。