欲しいもの。

  この前、ジョージセルのベートーベン全集を欲しいと思っていたが、結局、買わず。
  カラヤンのベートーベン全集が欲しいと思った。結局、買わず。
  次はカラヤンブルックナーの前期交響曲集が欲しいと思っている。これは現在進行形。
  欲しいものがある時は、それが欲しいのだが一過性の性質が強い。後で、買っとけば良かったと思うことも結構あるのだが、その調子で買っていると財政破綻するのは明らかだ。
  欲しいものは、自分でそれを欲しいように、思考が働いていくのだろうかと思う。主観的に考えると欲しいのだが、客観的視点に立つとそんなに必要ない。必要性という意味では、全集なんて要らない。
  基本的に、収入が少ないので求めるものは少なくという生活をしている。収入に見合う支出、そうすれば、苦労も減るというわけだ。
  求めるものが多いと、それを入手するのに多くの苦労がかかる。多くの苦労がかかれば、求めるものも多くなる。
  何のために、お金を儲けるのか。多くのものを買うため。何のために多くのものを買うのか、それはお金を儲けるため。多くの苦労をすれば、旅行や食事でストレスを発散したくなるし、いい気分になりたい。それはお金を要する。そういう気分を味わうにはお金がいる。
  何のためにということを考えると、人間がやっていることは循環論法に陥るのだろうと思う。それは、究極の目的というようなものは人生にないから。そのために、何かをするということがない。何かは、何かのためであり。目的を尋ねる限りこの連鎖に陥る。
  求めるものが少なければ、それで満足できるのだろうか。これはある意味、消費を基調とした社会性から逸脱する行為なのだろうと思う。出世についても求めることが少なければ、社会的評価も必要ない。自己完結型満足なのだ。
  哲学者の幸福は、観想にあるようなことを昔の偉い人が言っていたと思うが、こういう観想は幸せなのだろうか。確かに、求めるところが少なければ、悩みも少ない。
  これは、幸せなのだろうか。そう思えるほど、無欲にもなれない。