優秀という気持ち

  自分が優秀だと人は思いたいのだろう。どこかにそういう気持ちがある。外の人とは違うんだと。誰も似たようなもんだと思うのだが。金がある人はそれではっきりと周りの人とは違うと言える。実際に他人ができない贅沢をしていることが自分で見ることができるから。
  金がない人、自分のことだが、そういう人は違うところで、他人とは違うと言って自分を褒める。どこかに自分を褒めるところがないと、生きるよすががない。立つ瀬と言ってもいいだろう。自分のテリトリーそのようなもの、実際に生きる場面、環境であるわけだが、そういうものがないと。ここが自分の場所だといえるところが欲しいのだと思う。
  でも、実際にそのような場所があるわけではない。皆、そう思い込んでいるのだが。そのような場所は、仮の住まいでしかない。そこにあると思っていても移ろいゆくものでしかない。自分の場所は、物理的に居ている場所が自分の場所であるに過ぎない。心理的にそこが自分の場所と考えても、その場所もいつかは、自分ひとりになるだろう。現実にそこに、自分の心の中にいるのは自分でしかないのだから。そこに住んでいると思う他人は自分の写し、期待のようなものだろう。
  そうすると、自分の1人であることの寂しさを忘れるために、自分が1人でないかのように人と話し、共感というものを期待する。そして、そのことに自分を慰める。共感でなくてもいい。そこに敵を見つけることもできるだろう。それに夢中になっている間は、自分が1人であることを忘れることができるのだから。共感であれ敵であれ、何か自分がなすべきことを見つけた気になることができるのだから。
  そこにある自分がなすべきことをなすことで、自分は優秀とか、褒めるとか、自分の生きる場所を見つけるだろう。それも、自分というものを支える支点のようなもの。それが自分は優秀という思いなのかと思う。
   そういう自分の思い込みたい気持ちを忘れる方が、いっそ楽なんだろうと思う。立つ瀬がない、人生そういうものだと、川に浮かぶ葉っぱのようなものだと。もとよりどこに流れているか誰にも分からないようなものだから。
  何が満足で、何が不満か、自分が満足するものも、それも、自分ひとりの話、どこかに基準があるわけでもない。人からつまらないと言われても、それはそれで満足していくことだと思う。そこで満足するために、帰って、自分は優秀、人とは違うのだという気持ちになるのだろう。