良いことばを口に出せ

  「 良いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。良いことばを口に出したほうが良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。」

 「自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実によくとかれたことばなのである。」

  感興のことば 第8章 ことば 岩波文庫 中村元 より抜粋

 

 「お前に敵などいない。誰にも敵などいないんだ。傷つけて良い者などどこにもいない。」

  ヴィンランド・サガ  講談社 幸村誠 より抜粋

 

 世の中に敵などいない。漫画の「ヴィンランド・サガ」の主人公のお父さんがそういうセリフを言うのだけど、自分でも最近そう思うようになった。

 世の中の敵は、自分が作っている。垣根、内と外、この二つを作るのは概念に過ぎない。ジョン・レノンの「イマジン」でも天国も地獄もないと言っているけど、想像している自分がその敵を作っている。

 互いに敵を作ると、それは確定的に敵になってしまう。利害が反することはあるだろうが、敵ではないと思うと、付き合い方が変わってくる。

 私は、人とあまり付き合いはない。業務上の付き合いをするだけだがそれでも付き合いで利害が反することは多いが、相手は敵ではない。味方でもないが、敵がなければ味方もない。そういうものだと思うようになった。

 自分で、口にすることが敵を作る。自分が作った敵は、本当に敵のように対応されることになる。

 私は、敵も味方も作ろうとは思わない。特別に良い言葉を語ろうとも思わない。ただ、人の悪口を言うのはやめようと思っている。特に、当人がいないところでは言わない。もし、言うのであれば当人を目の前にして言うべきだと思っている。

 これだけで、ぎすぎすした世界から変わることができる。周りが例え、そうでなくても、独り歩め。と思う

マーラー交響曲第9番の意味

  マーラー交響曲第9番を聴いている。この曲は、厭世なのか、人生に希望を見ているのかよく分からない。走馬灯のように曲が展開して、さいごに消え入るように終わる。

  この曲を聴くまでに、自分の人生が誰にも気づかれることなく、静かに誰に迷惑もかけず終わることが出来れば良いと思っていたのだが、そのイメージとしっくりしていて、驚いた。自身、雲が消えるように世を去りたいと思っていたから。

  多くの人に惜しまれて死にたいとか、全然思わない。理想は、気がついたら、いなくなっていたんだな。と思われる。そういう死があれば良いと思う。

  これが、希望なのか、厭世なのか自分でもよく分からない。

  この曲は、そういう気分とよく合う。

  好きな曲なのだが、聴いて元気が出るのか希望がでるのか分からない。

 こんな風に終えることが出来ればいいなと思う。最後は、涅槃なのだろうか。死の後に、何かがあるのではなく、消え入ることが、希望、それを目指して生きる。そういう希望の曲なのだろうか。

たのしみ 

  カラヤンのベートーベン交響曲第4番をブルーレイディスクで聴いている。ハイレゾの5.1チャンネルの再生なのだが、うちにはセンタースピーカーがないので4.1チャンネルで再生をしている。

  ヤマハのAVアンプにJBLの安いスピーカーをつないでいるのだが、けっこういい音で聴けるので満足。部屋が小さいからこれ以上大きなスピーカーをつなぐこともできない。

  クラシックファンのブログを見ていると大変なシステムや部屋を持っている人がいる。うらやましくも思うが、身分相応を考えると真似できることではない。

  きっと高いスピーカーはきっと良い音がするのだろうなと思うが、自分の耳の方には聴き分ける自信もない。生の演奏会でも、家のステレオでも似たような音だと思っているくらいだから、大した聴覚やセンスはないと思う。

  良い物を欲しがるのは、楽しみの一つだ。物に執着しないように思っているが、凡人だから、結局、何某かの執着はあるし、それがないと世の退屈から、生きることが楽しめなくなってしまう。

  物に自分を投影して威張るようなことは馬鹿げたことだと思うが、物で自分が楽しむのは悪くないと思う。

  執着と楽しみの関係は、楽しみに執着すると、それが楽しみでなくなる。むしろ、苦しみや恐怖の原因になるだろう。執着することなく、楽しめるそれが理想なんだろうと思う。

  楽しみは、それが記憶になるとまたそれを体験しようと思う。それが執着になるのだろうと思う。

  その時の楽しみは、その時で終えなくてはならないのだろう。あとから、思い返して、ああ楽しかったと思えればそれで良い。

  そう、過ぎたことは戻らない。それは1回限りの体験であり、同じ体験は2度ない。

  

実在するものは何か

  実在するものが何か。私は、世界の中に生きているが、その世界は私の世界でもある。他人が私の世界にはいるが、世界は私の世界でしかない。私の存在に基づいて、私の世界が存在している。

  私が、いなくなった時に、世界がどうなるのか、私には確信は持てない。私が存在しなくなったとたんに、私の世界は失われる。その後に、世界がどうなっているのか。他人が、私と同様に世界を持つことは、間違いないだろうから、私が失われても、他人の世界は依然として残るのだろう。全人類が死滅しても、相変わらず、世界は存在するのだろう。その世界も、いつかは消滅してしまう可能性もある。この時、世界は無くなるのだろうが、無くなった後というものも、同時に無くなるわけだから、世界が消滅するということは理解不可能な状態だ。

  この世界に中に生きて、私の世界と、私を超える他人の世界、他人の世界を超える世界、人類が死滅しても残るであろう世界、そういう世界に生きているわけだ。

  私の世界は、主観的でありながら、私を超える世界そういう世界の上に基盤がある。この主観的でない世界、そういう世界が実在といわれるものだろうと思う。

  この実在の世界は、私には手が届いているのだろうか。目の前にある物体、キーボードを叩いているのだが、それは実在である。キーボードと名付けた物が存在するのか、キーボードというのは名であってそこにあるのは、プラスチックに金属の構造物だろうか。プラスチックや金属も名であって、そこにあるのは何らかの原子(さらに素粒子以下同じ)の集合なのだろうか。

  原子の集合を、私は見ることができるが、原子を見るわけではない。原子は、極めて概念的な存在だ。原子があると教えられたからあると思っているだけで、電子顕微鏡で見ることができるとしても、像を見ているだけなので本当にその像が実在を映しているかのは信じるだけの話になる。

  これは、見るということ自体の限界でもある。自分が見ているものがそのとおりにあるとは、限らない。原子の写真と言われても、その原子でさえ、実はさらに素粒子で構成されている。

  概念的な原子の存在を信じたとして、原子が存在するとすれば、世界は、実在は、全て原子だと考えると原子記号表にあるものが存在の全て、それらがおよそランダムに世界に分布している。それが、実在なのだろうか。こう考えると、世界からは多くのものが失われることになる。

  多くのものが失われた世界で、原子だけが存在している。そういう実在の世界、この考えは、物だけの世界なのだろうが、皮肉なことだが極めて空想上、概念的世界でもある。直接見ることができない原子の世界が、世界の全て。原子の世界では、その境界は、原子記号で判別される塊が方々にランダムにあるであろうから、境界というようなものはおよそできないだろう。世界は原子記号で分類されるがその分布が明確に表示できるような境界線のようなものは存在しない。雲や台風の境界は、あるようでない。同様に、世界には境界がなくなるだろう。世界に実在するものは唯ひとつ、世界でしかないのだろう。

  このような世界に、私がいる。そして私の世界の中で、このような世界が私を超える世界なのだろうと想像している。

  

何が存在するか。

    世界に存在する物を考える。世界には、素粒子が存在するだけで、素粒子が多く集まったところと、希薄なところがあるだけ。この考えすらも、実は素粒子の動きでしかない。意味のある物はなく、時間も実はない。過去も未来もなく今があるだけ。

   一方で、この考えはある。素粒子しかないという考えを持つ(考えを示す一定のパターンを持つ素粒子)、この「考え」というものは、今、ここ、という特定の物理的存在と異なり、何処にでも、時間を超えて「考え」というものが言語的に存在している。「考え」という概念は、物理的存在とは異なる。「素粒子」という考え自体が、「素粒子が存在するだけ」、という考え自体が、実は「存在する物の全ては物理的存在だけである。」を信じるということは、それ自体が、概念を信じており、前提にしている。

  概念は存在しないと主張することは、それ自体が概念であり、概念が存在しないことを信じないにもかかわらず主張することはできない。

  つまるところ、物理的存在のみが存在する物と主張しても、その主張は、物理的存在ではなく、一つの声明に過ぎない。声明の存在を否定することは、当の主張の存在自体を否定することになり、その主張は何処に存在することになるのか。主張する者は、自身の主張が存在しないことを主張していることになる。

  私は、実は存在しないという説明は、これを信じるとして信じているという事実は存在しないのか。事実でないと信じるということは何を意味するのか。

  存在論を考えると、物理的な存在だけを信じるということの限界を感じる。独我論のように、世界を観念の中に押し込めることにも限界を感じる。

  世の中の不思議を感じるのだが、何が存在しているのかさえ、ハッキリとしない。皆、存在しない物を、神とか、権威だとか、肩書きとかそういう空想を存在するものとして暮らしている。

  いつまでたっても、世の中に何が存在しているのか私にはハッキリとは分からないだろう。ぼんやりとした境界のない存在、そういう世界にいるのだろうと思う。

  それでも、宝くじでも当たらないかなと、考えるのは何でなんだろう。

一人いること。

ブロムシュテット指揮のドレスデンシュターツカペレのベートーヴェン全集を買った。セル指揮のクリーブランドを持っているのだが、セルのが面白かったので、また買ったというわけ。カラヤンのブルーレイオーディオの全集もあるが、ブルーレイはテレビを点けないと操作出来ないから中身はいいのだけど、聴き辛い。
ブロムシュテットは、90歳を超えて現役で、音楽を聴いて年齢を感じさせない。若い時から、自分が好きな仕事をしているのだが、そういう人を見ると羨ましく思う。他人と自分を比較しても自分がいかに、みすぼらしく何も持たないと思うだけなのだが、あり得べき自分、こうであった可能性、そういうものを考えると、自分と自分を比較することになる。ありもしない可能的な自分そういう空想と。
空想と、自分を比較して自分をつまらなく思うのだが、そう思う自分がまたつまらなく思う。今の自分を満足せず、かといって何も変える事がない。
何か、開きなおってこれに満足していればいいのだが、そういう気分にもならない。どこかで、不満に、全てが不満に思えるのだ。
人生は、もっと単純で小さな自分に満足してその時を暮らせばいいと思うのだが、虫歯の痛みが無い、そういうことだけでも、痛みがある時からすると幸せなのだが。
贅沢したいわけでもなく、真っ当にくらしているのだが、何を求めているかも分からず同じ毎日を繰り返し歳を経てきた。
そうした時に、少し寂しく思うのだろうか。何も成さず、何者でもない。そう思うことに。

休日

  休日を過ごす。昼飯を自分で作りビールか安ワインを飲む。クラシックを聴き、暇になれば、パソコンでマジックザギャザリングの対戦をする。気が向けば哲学書を読むが、すぐに寝てしまうこともある。

  自転車に乗って河原で、弁当にビールを飲むのも良い。

  一人でいると、気軽でいい。

  友人がいないから、たまに、同じ趣味の人で気が合うような人がいればと思うこともあるが、面倒な事が増えるから、そういうつもりも心底では思わない。

  この金銭を道具とした収奪を道徳として、生まれ付き不平等な社会世界は人が作ったものだ。そういう世界に生き、それを受け入れて生活をする。出来るだけ、そのようなことから、距離を置く。人の悪口、陰口を言わず、つまらない社会的な小さな出来事から離れて暮らす。

  人ゴミの中で、人に付き合いながら、1人でいる。みんな結局のところ、そうなのかもしれないが。

  世の中は、結局は、形、記号、そういう物で編まれた幻想の出来事、解釈があるだけで、目の前にある事実、形や解釈、意見を含まない事実。どちらで出来ているのだろうか。解釈を含まない事実を、見てとる事が出来るかと言われると、まあ、私には、無理、誰であれ、無理、そういう気がする。

  そうすると、多くの幻想を事実と思いながら、その事実も怪しいなと思いながら、暮らす他ない。