主語と述語から考える世界観

  主語と述語の関係は、ライプニッツの意見であれば主語の概念に述語が含まれている。「人間は動物である。」と言えば、人間という概念の中に動物が含まれている。「イチローがヒットを打った。」と言えば、イチローという概念の中にヒットを打つ。ということが含まれている。
  この調子でいけば予想できることだが、イチローが行うことの全てが予め、イチローの概念に含まれることになる。人間で不可能なことは、現実化されないので含まれる範囲が限られたものであることは確かだが、世界は予め神に定められた世界観になる。
  主語と述語の関係が、上手く収まっている文。言い換えると意味のある文は、世界を正しく言い表している文になる。この世界は、文で表現される時には、一つの事実として世界からその一部が切り取られる。
    では、事実とは、主語と述語の関係にあるのだろうか。人が事実を表現しようとする時、どうしてもそこには、主語と述語が必要になる。日本語は主語を省略できるが、その時には主語が隠されているだけで、主語が存在しないわけではない。
  文で世界を正しく表現することは、事実を語ることになるのだが、この正しくは何を持って正しく表現になるのか、真偽が問題になるわけだが、文に対する真偽は何と比べて真だと言っているのだろうか。
  事実は言葉によって主語と述語により表現されるのだが、世界を観察してこれを表現する言葉が、世界の側と一致するかと言えば、必ずしも一致しない。極端に語彙が少ない者は、表現できる世界は身近なことの一部に過ぎないだろう。語彙が多ければ世界と一致するかと言えば、必ずしもそうはならない。世界の側と、言葉はやはり異なるものだ。同じものにはなりえない。
  言葉を使って世界を表現して、それが正しいかどうかを言葉を使って検証するのだが、言葉を使って言葉が世界に一致するか検証するのだから、その検証も言葉に依存せざるをえない。そういう意味では、言葉で事実と考える物が、世界の側の事実であるかどうかは怪しいものだ。人が考える事実は、主語と述語関係において表現されるのだが、神でない人が、主語にどのような概念が含まれるのかを確実に言えるわけではない。
  主語と述語の関係は、世界の存在の仕方の一つの見方である。世界に存在するものは、主語と述語により結局説明をせざるを得ない。人が世界に存在するものを理解する時は、主語と述語の関係において理解をする。
  主語と述語の関係は、単純なことだが、人の世界の見方、ありようを規定している。
  そう考える時、自分の言葉や考えというものは、世界そのものに見えるように思えることも、結局、1人の考え、相対的なものに過ぎないとも思える。