実在というもの

  神は何故、悪を作ったか。キリスト教に関する本を読むと、よく出てくる話題なのだが、満足な答えはないように思う。一説は、神が存在する時には悪が存在していた。だから悪は神に起因しない。もう一説では、神は全能だから悪は神が作った。前者は、神が全能ではない、神の力の及ばない世界があることになる。後者は、全能だけど、何故悪を作ったのとなる。
  これを、神の存在を前提にして説明するのはどこかに矛盾が生じることになる。悪が存在するのは、人が悪と呼ぶもの、対象、概念を作ったから悪が存在するのであって、悪そのものは存在しない。こう考えると、すっきりするのだが、信仰上はこのような考えは肯定できないのだろう。
  中世に普遍論争というものが巻き起こるが、普遍は存在するかしないか、普遍とは名称に過ぎないのか、実在するのか、という議論である。「薔薇」は名称であって、「薔薇」そのものは存在しない。「薔薇」そのものがあるという人は、その「薔薇」が何色をしているか説明できるか考えてみれば良い。普遍論争とはこのような議論を指すのだが、悪の次元も悪と言う普遍は存在しない。悪とは名称に過ぎないと言えば、分かりやすいだろうか。
  いや、悪は確かに存在するという人もいるだろう。私も、ある意味で悪は存在していると考えているが、その存在のレベルが、悪は普遍(普遍が名称であったり、概念とする立場から)として存在するのであって、具体な実在ではないと考えているのだ。
  実在のレベルでこれが悪というものは、存在しない。人はそれぞれの事象を見て、悪と呼んでいるのだ。物理現象自体は、悪でも善でもない。これを起こす人の行為、意思を悪と呼んでいるに過ぎない。
  では、善も存在しないのか。これも悪と同レベルの存在と考えている。ある意味存在しているのだが、実在ではない。
  現実に、私が実在を信じている物も、相当に言語を通して実在を認めているのだから、実在と言っても厳密にどこからが実在と言えるかは難しい。カミオカンデで見つけた素粒子なんかは実在なのだろうが、あらゆるものを素粒子レベルまで分解して実在を捉えることは、人にはできない。むしろ、素粒子レベルの実在の方が、常識的な認識を超えている理論的な存在のようにしか見えない。人は、実在を認めるには、どこか概念でくくった存在を言葉の上に認めるしかない。
  その存在の中に悪や善を認める人は、悪や善は実在するというだろうし、そこまで実在を抽象的にとらえない人は、私のように悪や善は実在ではないというだろう。
  実在の抽象性、この抽象のレベルをどこまで認めるか、悪や善の実在を認める人は、神の実在を認めることになるのだろう。信仰と認識を完全に切り離す人は、必ずしもこうとは言えないかもしれないが、悪と善の存在と神の存在は同一の軸の上にあるように思う。悪や善の中で、中に神を人は見出すのだろうと思う。
  このことを考える時、よく思い出すのがジョンレノンの「イマジン」だ。彼は、天国も地獄も存在しない。空が存在するだけだと、そして皆が今日を生きてると言う。私が考える実在のレベルというのは、こんなもののような気がする。