人の真似をしないとは

  成人式のニュースをしていたのだが、インタビューで新成人が「他人の真似をしない人」になると、言っていた。妙に、それが気になるのでここにメモしておこう。
  彼は、かなり奇抜な服装をしていたが、彼のまわりの人々も同様の格好、その地域では地域ごとに衣装をそろえて集まるそうだ。かなり郷土愛の強い地域。
  彼の服装は奇抜なのだが、周りが、皆、奇抜なので、その地域では標準化されてしまっている。奇抜さも、一つの記号化、その奇抜な服装がヤンキーの象徴のようになっており、その象徴の範囲内の服装なのだ。
  彼は、そういう服装の話をしているのではないのかもしれない。生きる上での指針のようなものを言いたい、伝えたかったのかもしれない。
  成人式に出席するという行為が一つの枠の範囲、その中で奇抜な服装をするというのも一つの枠、これにすっと納まっているのだ。とりあえず、成人式については、人の真似をしないという行為や目標の範疇外であろうと思う。
  日常生活において、円滑に暮らすならば、定型のことをしなければならない。出勤時間や挨拶は欠かせないだろう。買い物ではレジにはならばなければならないし、お金を支払わなければならない。
  彼が言いたい人の真似をしないというのは、日常生活を送るのに必要な習慣のことではないのだろう。何か、重大なことについて、人の真似をしないということなのだと思うのだが、考えてみるとそれが何であるのか思いつかない。
  出世したいとか、名声を得たい。逆に清廉に生きたいとか、考えても人の真似にならざるを得ない。先達は、大概のことはやってしまっている。自分がやりたいことをすればいいと考えると、自分のやりたいことが人の真似でないと言えるのだろうかと思う。それを意識せずにやれば人の真似ではないのだろうか。
  終局的に言えば、自分が決定した行為は、他人の強制があったとしても最終的には自分がやると選択した結果、つまりその判断をした際には自分がやりたいことを結局やっているのではとも思う。そう考えてしまうと誰もが、自分のやりたいことをやっている。環境的制限はあっても、自分が選択したこと以外に自分ができることはない。
  自分の意識のもとに、自主的に決定したことも、他人の影響がないとどうして言えるのだろうか。影響はあっても、真似ではないと言えるのだろうか。真似と真似でないことの境界というのは、線としては引けないのだろう。ぼかした雲のように、雲と空の間のどこが境界かわからないように。
  では、本当に自分が愛しているということをすると考えるとどうだろう。例えば、私自身は、本当に愛していることを仕事にしているのではない。金銭や環境がそろうなら違う仕事でいい。本当に自分が愛していることなら、他人がしていても、他人がするのを見てそれが良いと考えても、真似ではないのではないだろうか。ここにオリジナリティがあるような気がする。
  でも、かなりこれが難しいだろうなと思う。