植木と私

  日帰り温泉施設へ行ってきた。そこに露天風呂があり、ちょっとした植え込みがある。そこには、人の身長くらいの樹木が植えてある。そこへ行く度に思うのだが、ちゃんと在る。私が見ていない間に枯れたり、消えたりしていない。私と、その植え込みとどちらの寿命が長いのか分からないが、行く度にまだあると思う。
  私に関係なく、その樹木は成長し、私に関係なくいつかは枯れてしまうものだと思う。永遠にそこにあるわけではないし、その温泉施設もいつまでもあるわけではないだろう。私に関係なく、私と関わりのない人間の意志でその樹木はそこに植えられたわけだが、木からすれば人間の意図を知るわけでもない。
  人間の意図があろうがなかろうが、日の光があれば、そこに与えられた場所に育つ。
  人が露天風呂の景色のために、置いたのだがそのことは木にすればどうでもよいこと、木は何も考えない。木に目的があるかと言えばそのようなものはないだろう。そこにあるから、そこに育つだけだ。自然と葉は、日の向きにあわせて茂っていく。
  私と木の違いはあるのだろうか。私は、何故ここにいるのか、誰かにそこにあるように配置されたのだろうか。誰かの意図があろうとなかろうと、植木が自分の目的を知らなくとも何も問題にしないように、私はそこに置かれている。私がそこに置かれて意味があるかないかは、私には分からない。私はそこで日があれば日を浴びてそこにあるように生きる。ただそれだけの存在なのだろうと思う。
  生きることに意味や何かを求めるのは、植え込みに置かれた植木の意味を考えるようなものだろうと思う。植木にはどうでもいいことだ。そのような意味があろうがなかろうが、そこで育つだけ、そして枯れていくそういうものだと思う。