ゼノンの矢と世界について

  ゼノンの飛ぶ矢は止まっている。という話の反証を考えるというお題を上の子が大学でもらってきた。

 矢は直線状の1点を必ず通るので、その1点を見れば必ず止まることになるというそういうお話。  
 上の子は、飛ぶという運動、運動自体が時間を要するので、止まっている時点を捉えることが、運動という前提、飛ぶという言葉の意味から外れている。という見解だった。
 言葉の用法、定義の面から捉えると、確かにそうだろうと思うが、この問題は、むしろ言葉の意味の問題だけでなく、実在の在りかたから見た方が面白いと思う。
 時間は、無限分割できるのか。点の連続が線であるように、今の連続が時間だろうか。
 私達が住んでいるこの時空間は、今だけが存在するのだろうか。過去は、過ぎ去り虚無となっているのだろうか。未来は、私達の期待や思考の中にだけ存在するのだろうか。この私が言う「今」は、この瞬間なのだが、その瞬間というものは点ではなく、むしろ継続した時間を有する。そうでなければ、思考さえできないだろうし、音楽を楽しむこともできないだろう。
 この継続する時間の「今」は、幅があるのだが、それは脳内で電気的に生理的反応が生じているからだろうか。本当に、存在するのは、瞬間の方なのだろうか。
 もし、実在するのは、時間の幅がない「今」(過去、未来はない)だけであれば、その時、矢は止まっているように思う。
 タイムマシンで自由に時間を移動するシーンが漫画や映画にあるが、もしタイムマシンがあれば、移動した瞬間があり、移動した先、そこは止まっているのではないだろうか。
 このタイムマシンモデルだと、時空間は既にコンプリートされ、固定された状態にあり、その座標上を任意に移動しているように思う。この時空間の全体像は、固定され、つまり全体、そしてそのどの時点も、変化がなく止まっているように思う。この時空間の中で運動は、物体が占める座標上の位置の変化として表現されるのだろうが、こう考えると座標上で静止しているように思える。
 座標での位置の変化を運動と考えるのが、物理的な解釈での正解だろうと思うのだが、座標での位置の変化と考えると、やはり金太郎飴の切り口を見るようなイメージが沸く。(この金太郎飴の顔は切り口で変化し、笑ったり泣いたりするような特殊な金太郎飴になるが。)
 私達が住む、この世界の本当の姿は、どこかに過ぎ去った過去が保存され、これから来る未来も周到に用意されているのだろうか。キリスト教の神様は永遠であり、神に始まりも終わりもなく、世界は神が決めたように初めから終わりまで、救われる者、救われない者、全てが予め決まっているという世界観。そういう世界観であれば、人の視点を超えた視点からすると世界は静止したかのように見える、どのように観察するのか、動画で見るのか、静止画のコマ送りでみるのか、ただの静止画で見るのか、そういう違いなのではないかと思う。
 静止画のイメージを考える時、ゼノンの矢は止まっている。
 私の常識や、主観を考える時、客観とは違いがあるのだろうと思う。
 もし時間の方が非実在であり、この場合、時間は座標系のもとでの物体の位置の変化でしかない。逆に位置の変化がないところに、時間は存在しない。
 位置変化があると、そこに時間が生じる。位置変化を観察者が見るとそこには、時間が生じ、運動が生じる。観察者が、ある金太郎飴状の時空間の切り口を見るとそこには時間はなく、運動は生じない。
 ここでいう時空間は、ある物体の位置の変化を表す座標上の変化でしかない。こういうと、結局、言葉の用法の違いようにも思えてくる。時間があるのか、位置変化を時間と呼んでいるのか。この範囲では、言葉の問題のようにも思えるが、次のことを考えるとそうだけではないように思う。
 本当に、時間が、主観の元にあるのか、物体のような客観的な存在者なのか。
 時間が、主観の元の体験でしかないのであれば、世界は止まっている。(継続した時間というものなどない。)というのが本当の姿なのかもしれない。
 時間は、位置変化なくても、また、その変化を観察する観察者がいなくても、世界には時間が流れているのであろうか。ここまでくると、空間の存在も疑問視されてしまうが。
 ただ、自分の時間の存在の信念、そういう主観が正しいとも思えない。世界は、家庭や仕事の場とは、違う意味のあり方をしているのではないかと思う。