当たり前の構図

今朝、ケロリンの風呂桶がなくなるとテレビで騒いでいた。銭湯にある黄色のプラスチックのおけだ。
これまで、誰も気に止めていなかったのだが、無くなると言うと騒ぎ出す。町の映画館が無くなる時もそうだ。誰も見に行かないから、無くなるのだが、いざ無くなるというととたんに騒ぎ出す。
マイケル・ジャクソンもそうだ。亡くなったとたんに騒ぎ出す。失って初めて、不便さに気がつく。大切さに気がつく。
普段あることに私は、気づかない。普段にあるということは、図の背景でしかない。私は図を見ることはできるが、背景に気がつくことがない。私は、背景を見ていないとは言えない。背景が普段どおりであれば、それに気がつかないのだ。背景に異常を感じた時、その時に背景は図へと変化する。そしてその異常さがクローズアップされる。
これが、だめだというのではない。私の生活はこの当たり前の構図に埋め尽くされているのだ。そして、そのことに気づかないままに暮らしている。全てに気づくことは論理的に不可能なことだ。私の関心が右にいけば、左は見えないのだ。背景の一部を図にすると、これまで図であったものは背景へと変化する。私が、何かに気がつくことは、何かを失っているだろう。