存在と時間、読書メモ

ハイデガー存在と時間では、現存在(人間のこと)は、世界内存在だと言っているのだが、これを分かりやすく言うと、現存在(人間(今ここにいる自分のこと))は、「世界の内に居る」と、「私は世界の内にある。」と言っている。
今ここにいる自分が、世界の内に居るのは、今ここに居るのだから当たり前、ではここで言う世界とは何かが、問うべき対象に思う。
世界内という世界は、私の世界であって天文学で言う宇宙の広がりのような世界ではない。
むしろ、趣味の世界やオタクの世界という場合の世界の方が意味合いが近い。
私という経験、人格が理解している私の在り方が私の世界を規定している。このような意味で私は世界内に居ている。
この点では、ウィトゲンシュタインが世界は私であるという趣旨の発言をしていることと類似している。(厳密には意味は違うのだろうと思うが。)
もし、私が世界の限界であるならば、私が世界の内にいることも当然だろう。
命題論理風に言えば、xが存在するならば、それは世界の内にあるxである。
xには私を代入して、関数であるfの性質は、世界の内にあるという性質。
これが分かりづらい人には、fの性質が父ならどうだろう。f(x)は父である人が規定される。xが私なら父という立場での私が規定されている。
ところが、fが「世界の内にある。」という性質が何かを語っているのかと言えば、命題論理では何も意味しない。xが存在するとしか言えないし、それがどんな存在であるのかとは何も言っていない。
そういう意味では、「世界の内にある。」という時の関数であるfは、もっと「オタクの世界の内にある。」とか、「職業上の立場としての世界の内にある。」とかいうような理解が必要だろう。
そうでなければ、xを想定している時点で、xが世界の内にあることは想定済みであるし、ウィトゲンシュタインが言うように世界の外にあるものなど、誰も理解できないし、想像さえできない。