スケート観戦 1

 真央ちゃんのスケートを応援しようとテレビを見ていると、妻に「真央ちゃんの応援したらだめ。」と言われた。いつも私は、負けそうな方を応援してるので、私が応援する方はよく負けてしまう。
 今回は、真央ちゃんが不調なので応援しようとしていた。やはり自分が応援したから負けた。ということがないように、応援しないようにテレビを見るという難しい鑑賞をしていた。私が応援しなかったせいか良い結果がでた。
 テレビを見て応援することと、負けることも、勝つことも因果関係にないことは明白だが、私の応援に何か祈りや、呪いのようなものが存在しそうな気持ちになる。
 妻に言わせると私が気にいった店はよくつぶれるそうだ。実際に昔に行っていた店の多くが、気がつくとなくっている。私が好きになる店は、個人経営の店ばかりなので、何年か営業すると、つぶれることが多い。本当は、私が気にいらない店は、それより早くつぶれているように思う。どうでもいい店はその存在さえ分からないままに入れ替わりをしていることだろう。
 
 私が、もの事を観察することと、その結果には因果関係がない。しかし観察を超えて応援をすると、奇妙に連帯感というものが心に芽生えてくる。テレビの先の出来事に、現象に、私と連帯関係の生じようはずもないのだが。
 私が応援したから負けたというのは、こちらの思い込みに過ぎない。それでも私の心象は、観察対象の敗北や消滅が一部に私自身の出来事のように捉えてしまう。
観察するという行為を超えて、どちらかを応援するという行為は、私自身が応援される者のそばに立つことだ。この時、負けた悔しさが自分にも生まれてしまう。
 観察と応援はまるで違うのだろう。私が好きなのはどちらかというと観察だが、それでも、応援も時々することは面白い。
 これからも私は負けそうな人を応援することだろう。
 これが、妻が言うように私に応援される者にとっては迷惑なのだろう。