応援と観察 2

 野球チームやサッカーチーム、スポーツ選手を応援するのは、楽しい。応援するチームや選手が勝つことは、自分自身をそのチームや選手に写し込み、自身の出来事として感じることができる。もちろん、負ければ自身のふがいなさのように感じることもある。人によっては、野球チームの勝ち負けをその日の気分に写し込んでしまう。それがチームとの一体感を得る方法であり、彼はそうすることで満足を得る。
 この行為は、何もスポーツ観戦に限らない。私は、何かに自分を写し込んで満足を得ている。仕事に自分を写し込む者は、自分が仕事と一体化し、自身の偉大さは仕事の良し悪しとなる。社会的な環境で仕事をしている者は職場における自分の地位や権限、権力を自分と一体化してしまう。
 何かに人は、自分を写し込み、写し込んだ対象と一体化することによって満足を得る。
 ある神さまを信じ、神の偉大さが分かる時、自分の満足を得る。自分の神さまを信じても、他人の神さまを信じることはできない。自分の神を汚した行為は、自身の出来事のように怒りを覚えてしまう。
 本当の神さまなら、下々である人々の行為の一つをとりあげて怒りという感情は持たないと思うが、下々である私は怒りの感情を抑えることができないだけでなく、自身の義務や権利と考えて他人への攻撃を始める。
 ここで言う神さまは、本当の神さまでなくても同じことが起きてしまう。神様のところに野球チームの名前、自分の子供や、自分が大切にしているものを当てることができる。複雑だが、他人へ期待、信頼をそこにあてはめることもできる。
 この自身の対象への写し込みは、止めることができないのだろう。自分が喜ぶ出来事は、自身を対象に写し込んだに過ぎない。喜ぶという行為自体が、この写し込みという過程だ。
 (私は、今、言葉をつないで遊んでいる。この文を考えるのも、写し込みの対象だ。よく文ができていれば、これに満足する。)
 この過程が分かっても、結果はすぐには変わらない。観察しながら少しずつ変わるだけだろう。それに私がどんな結果を望んでいるのかも分からない。やがては価値のないものに喜ばなくなり、怒る価値のないものに怒らなくのだろうか。
 その後に、私に残ったきれいなものがあればいいのだが。