勝手に解釈、論理哲学論(考)

世界は、事実の集まりであり、事実は命題によって表される。

命題とは、○○は××である。という形の表現だが、この表現を積み重ねることによって、事実の表現がなされて、世界が表現される。

命題の存在は、論理的に可能な世界を前提としている。たとえば、ポチは犬である。このことから、ポチという個体の存在、犬という種の動物の存在、また犬の存在から犬でないものの存在が前提となる。
そして、ポチは犬であるという命題の真偽は、ポチが猫につけた名前であれば偽となる。命題の真偽には、どちらであろうと価値はない。真偽のどちらかに分類される。偽であれば、事実認定に誤りがあったに過ぎない。真偽自体に価値があるのではなく、価値はポチ自体にある。

命題は、ポチが存在する。そしてポチは犬である。と分解できる。そしてこれ以上分解できない要素になった命題に真偽があり、この真偽の結果がポチは犬である。の真偽を決定する。
世界を表現する命題は、このような命題の積み重ねだ。もし、すべての要素からなる命題を表現できれば、世界は記述される。(無理だが。)

命題が世界を表現するのだが、命題が○○は××である。という形式を持つことは、世界に与えられたものではない。この思考の形式は世界の外側にある。
思考の形式である論理は、世界の中にあるのではない。例えれば、論理が世界を見る目であれば、目は自分の目を見ることができない。論理は自身を対象にすることはできない。論理は、ただあるだけだ。
どんな時にも、必ず真となる命題がある。この命題の形式は○○は○○である。当たり前だ。単語の意味を調べた時に、気がつくと元の単語に戻ることがある。愛=人を好きになること。好き=人を愛すること、辞書を引いていると行き当たる。これは、世界を正しく表現すると、必ずこの形式に行き当たるということだ。

世界は、こうして見ると難しくない。○○は○○であるだけだ。一方、常に偽となる命題もある。いわゆる矛盾だが、これは○○は○○でない。犬は犬でない。というような表現だ。これも当たり前だが、世界を正しく表現できていない時の表現は、これになる。何を言っているのか分からない人がいるが、その人の表現はどこかで、このような構造が仕組まれている。普段は、そのおかしさに気づかないかスルーしているだけだ。むしろ、おかしさや笑いはこの矛盾する命題を是認し、そこから成立している。

私が世界を覗きこみ、世界を命題として捉える。世界を命題として捉えぬことはできない。世界を理解するということは、、言語化しそれを理解するということだ。言語の仕組みそれ自体に論理が仕組まれている。そして、世界を言語外で理解することもできない。(感動することはできるだろうが。)世界を理解し、語ろうとする時、言語の内で行う他ない。私が思考する限界は、私の言葉である。
そして、私は論理に従い言語を使用し、世界を記述するのだが、世界の中には価値はない。世界に存在するのは、○○は○○だ。という当たり前の事物に出来事が存在するだけだ。この出来事は、そのままにあるだけで、犬が犬であることに価値はない。ポチが居て初めて価値が存在する。ポチに価値を与えるのは世界ではない。ポチに価値を与えるのは、この世界の外に居る私だ。
そして、世界に意味(価値)を与える。命題に意味を与える。○○は○○だ。と言う私は世界の理解者であり、世界の価値創造を一身に担う者である。これは、誰かに頼むことはできない。
この意味では、世界は私が命題として記述し、そして世界に意味を与える。世界は私そのものであり、私は世界である。

この独我論的世界観、社会と反することはない。誰もが、同様に世界であるならば、他者の世界を尊重しなければならない。
この他者の尊重は、世界を記述しても現れはしない。何故、他者の世界を尊重しなければならないか。
これは、世界の外側の話である。だから、世界の側からは、現れない。この倫理は、私の内から現れる。
私とは、この点では世界を超えた存在である。世界<私。

これは、ウィトゲンシュタインの論理哲学論(考)を読んでのまとめです。
勝手に解釈しているので、テキストの正しい理解と異なる可能性ありありです。そして、私なりの世界観も表現しているのでオリジナル変形しているでしょう。また、この話の延長を書こうと思います。