今を生きる?

時が流れていく様は、誰もが理解しているようで、本当に流れる時を見た人はいない。
流れると感じるのは私だが、感じることができるのは今とほんの少しの過去、ほんの少しの過去というのは、音楽が聴けるのは、音の連なりを記憶し、それを今楽しむことができるから。
この記憶も、次々と連なる音に消え去っていく。

重力の強弱と運動の速さによっても、時の流れは変わる。そして、感覚的には忙しい時は、あっという間に過ぎ、時計の針を観察しているとその流れは緩やかになる。

そして、将来を考えると時間は長いような気がする。そして過去を考えると、思い出せる出来事があまりに少なく、おぼろげな記憶、何かがあったような気がするのだが。
実際には、出会う将来などない。出会うのは今であって、将来ではない。この意味では将来はずっとやってこない。過去についても、過ぎ去った過去は記憶でしかなく、過去を覗いているのは今。

時は今しかないのだが、人は時を将来のために使っている。将来のために努力しよう。将来のために保険に入る。それでいて、今を生きているし、今この瞬間でしか生きることはできない。保険に入るのは将来のためだが、お金を払うのは今だ。
労働は、今なのだが、それは今日1日の労働を終えることを目的に、夕飯を食べることを目的に、今でない将来のために働いている。

将来は目的であって行為ではない。今は目的でなくて行為である。

目的なく生きることは難しい。何か小さな目的を抱え、楽しみに毎日を生きる。そしてその毎日は、今この瞬間の積み重ねであり、今は行為だ。

人は、目的と行為という関係の中に生きているのだが、この関係を記述するとその人の物語だ。
人が時間の中で生きているように考えるのは、この目的と行為の関係を見ているからだろう。
そうでなければ、将来や過去も存在しない。この点で、時間は人の中にあるのだと思う。
そして、今しかないことを知りながら、自分を目的と連関し、この今の永続を願う。
そして、今の永続などないことも知りながら時間が過ぎていくように思う。