イメージと現実

この世は、幻か。と言っても、今回はマトリックスのような、仮想現実的設定を考えるのではない。
私たちが考える現実とは何か。私たちの現実は言語依存性が極めて高い。というよりも言語に依存することなく現実を捉えることができない。
「現実」ということをどのように捉えるか、次第で現実が変わってしまう。あなたと私では、現実と言っても、現実には言葉の意味や使い方が違う可能性が常にあり、必ず多少なりとも違っているのが当たり前ということだ。むしろ、どんだけ細かな定義を作ろうが解釈がどこかで変わってしまう。「現実」という言葉ひとつをとっても、この調子だ。
バベルの塔の話のように、人は言語が異なれば互いに理解できない。この可能性は、同一言語を使用する人についても、起こりえることだ。あの人は、こちらの言うことが全く理解できていない。という現象に出会ったことはないだろうか。
私たちは、言葉を通して物を見る。純粋に見るという行為だけを考えても、実際には見るということは、何が見えるかを認識することだ。パソコンが見えれば、パソコンと頭の中で見えるものを理解してしまう。
野田総理がテレビに映っていれば、太ったあごの脂ぎったおっさんなのだが、私の頭の中では、すでに二枚舌というワードが瞬時に浮かんでしまう。ある人をその人のイメージぬきに先入観ぬきに見ることは、まずできない。
社会の幻は、特に典型的に言語依存性が高い。肩書きや、ブランドは、言語抜きには機能しない現実だ。代表取締役なんて言葉は、会社制度のないところでは、全く何の意味もない。この点では言語依存性現実、社会機能性現実とでも、言うべきものだろう。ブランドについても、状況は同じ、高額なコマーシャル抜きにブランドなど成立しない。私たちは、そういう意味では言語化されたイメージの世界の住人なのである。この言語化されたイメージなしに私たちは現実を理解できない。そして、これは、普遍的な抽象概念にかかわることだけではない。個別の事物そのものも私たちは、イメージを通してから理解している。あらゆるものを私たちは言語化し、世界を言語化したものだけを覗き見ている。世界を眺めて私たちが理解し、見えているのは言語化した部分だけだ。言語化できない世界は、言語化した世界が絵の模様であるなら、地に他ならず、この地は見ていても、人には図柄としては見ることができない背景として溶けてしまう。
私たちが考える現実とは、私たちがイメージする現実に他ならない。この幻の中を、現実と考えて生きて行かなければならない。という現実。
それでいても、現実が幻であるとしても、悲観、悲嘆する必要はない。その悲観や悲嘆もまた幻にすぎない。まどろんだ現実、様々な解釈の可能性の中を私たちが生きていることは、幻ではない。この意味では、人を除いた動物は幻を見ないだろうと思う。動物が幻を見ないのであれば、動物としての人は幻ではないし、その生も幻ではない。