シュレディンガーの猫

観察するとあやふやだったことが決まってしまう。
観察しなければ、確率的に存在しているのだが。こういう経験をされたことがないだろうか。

シュレディンガーの猫のお話は、量子は波の性質を持つことから、自殺装置に波を当てるとオン、オフの両方のスイッチが入ってしまう。猫は死んでいながら生きている。というようなお話なのだが、量子がオン、オフどっちのスイッチに当たったかを人が観察すると、波の性質がなくなってしまう。死んでいるか。生きていることが決まってしまう。という不思議なお話だ。

この解釈を普段の生活に当てはめるのは、科学とは異なるのだが、とても似た感覚があるので、どうしても、思わずにはいられない。

好きか、嫌いか考えなければ、どうでもよかったことが気になり始める。そしてどちらか決めてしまう。いったん決めてしまうとひっくり返すことは難しい。物が欲しくなるときは、いつもそんな感じだ。観察しなければよかったのに。

仕事の話でも、相手が訊かなければあいまいでよかったことが、相手に訊かれると指定、何か決めないといけなくなってしまう。あいまいで、確率的存在でよかったのに。

例えば、長野県の志賀高原には、たくさんのブナの木があると思うのだが、これは私は確率的存在だと思っている。かなりの確率で存在するのだが、目で見ていないので存在が確認できない。
このブナの下には、キノコやコケ類が生えているのだろうと思うが、それも確率的存在だ。
そして、旅行でこのキノコやコケ類を見ると、あ~やっぱりある。
反対に、旅行で見ている風景は、私が家に居るときも本当にあるのだろうか。岩菅山で人知れず、見向きもされない木は、普段もあると言えるのかなと思う。

この調子で言うと、家の裏には、アリンコの巣があるかも知れないが、まだ見つけていないのでこれも確率的存在だ。


バークリーという哲学者がいるのだが、目で見ていない木はその間存在しない。というような主張をしている。彼に言わせると、私が後ろを向いている間に何で木が消えてなくならないかは、ひとえに神様が見ているから消えないらしい。感謝。

でも、この感覚は常に思い続けている。あなたの周りの人は、あなたの目に見えていない時、本当に存在しているのだろうか。友人が旅行にでも出かければなおさら、無事にいてるかは私には分からない。今この瞬間に事故にあって生を終えている可能性もある。お帰りの一言があって、初めて存在を確認できるのではないかと思う。