世界と私の関係

世界を覗く私に、世界から見た私。
私の視点から見た世界。これは誰もが理解しやすいだろう。誰もが、自分の世界を持つ。ルパン三世風に言うと、「男には自分の世界がある。」というと意味が分かるだろうか。私には私の世界がある。誰にも私の世界がある。

では、世界から見た私は、私とは世界そのものだ。
私というのは世界の縮図であり、世界の歴史や文化すべての結晶が私。これが世界から見た私。
私が世界であることを言うと。独我論の響きがあるが、この意味合いともう一点、あなたそのものが世界の縮図であり、結晶であるということ。
私の中には、喜怒哀楽、知識、経験いろいろなものが詰まっているが、これは世界そのものの縮図なのだということ。
私は、独り生きてきたという人がいても、その人でさえも世界の影響を受けることなく生きてきたわけではない。人間であるということは、世界を引き受けて生きている。

では、皆、同じ「世界」に生き、なぜ、それぞれ違う生き方をしているのだろうか。
それは、違う世界に皆が生きているからだ。同じ「世界」に生きていながら、それぞれに違う世界に生きる。人は、皆すれ違って生きている。同じ風景を眺めていると考えても、私とあなたとでは、全く違うを世界をみているのだ。言葉ひとつをとっても、会話をしてもすれ違うことがないだろうか。

私は、世界を引き受けながら、私の世界を持ち、新しい世界を目指して、いや毎日を生きながら、世界が過ぎ去るのを見ながら、これはどういうことだろうと考えている。

この引き受ける世界は、自分で選べない点と、選択可能な点がある。生まれついての環境や容姿は、決定済みであり、これを変更することは私にはできない。ただ、毎日は選択の連続である。この選択で私が引き受ける世界は、変化していく。大きなことでなくても、道の脇に何があるか。人の表情ひとつに何を見つけるか。そんな小さな選択、気づきでも世界は変わる。
この気づきの連続それに鈍感、愚鈍が私の小さな世界であるだが、私にとって世界最大の世界でもある。

今、ブラームス交響曲第2番が盛り上がっているところだ。これだけで世界は、大きく、変化に富んでいる。世界は、きらめいているようにも見えるし、悲しくも見える。いつも変化を続け、また同じ毎日のようにも見える。こうして日が暮れる。