めも

  映画のマトリックスでは機械に繋がれた人々が機械の電池、電源として使用されていた。そして、人々は皆、夢を見ている。夢を現実と思いながら。そして、そのことに気がつくこともなく死んでいく。
  このプロットは、プラトンイデア論での洞窟の比喩が元になっているのだろう。そのことに、前回の記事を書いて気がついた。
  洞窟の比喩は、鎖に縛られて前しか見えない人々が後ろから差す光の下に、影を見て、それを現実と思い込んでいる。振り返り後ろ(現実)が見れないので現実の存在を知ることができない。そんな話だ。
  私達は、現実を見ているように思っているのだが、実は現実が見れていない。特に欲しい物が人々にはあるのだが、それが本当に自分が欲しいものか理解できていない。例えば、子供にはオレンジ色のハンバーガーショップが大人気だが、あのマトリックスに出てきそうな、現実離れして喜ぶ子供達が投影されるコマーシャルを止めてどれほどの人が、あのハンバーガーを美味しいと思うのだろうかと思う。
  電気が足りないことについてもそうだ。原発がなければ電気が足りないなどということも幻想に過ぎない。私達は望む現実を見ようとしている。又は気がつかないうちにプロパガンダされ、自らがそう考えていると思い込んでいる。
  首を後ろに向けようとしても、前しか向けない価値観を、合理性という名のもとに刷り込まれているのだ。合理性の観念が現実を支配し、非合理的な価値は淘汰される運命にあるという価値観を自然に近代社会は受け入れ、発展させてきた。この合理性は、絶え間ない進歩主義に裏打ちされているのだが、進歩しない人々は自然と後退する。人々は走り続けなければ、今の位置にいることができない。この恐怖のうちに、合理性を受け入れ進歩を続けてきた。