「自己中」ゲーム 2

  ロールプレイングゲームの世界は、この世界感がよく現れている。このゲームをしたことがある人なら、自分視点で見るゲームがあること知っているだろう。
 自分はロール(役割)を演じていること。他者は、その者の役割を演じていること。自分の役割を演じながら、他者視点でゲームはできない。
 全プレイヤーが一同に画面に現れるゲームは、神の視点であり、人間が体験できる視点ではない。時間を共有しているイメージは、これが近いだろうが、自分を含めて上から眺めるような体験は実際にはできない。(もしこれができたとしても、自分を上から眺めている自分は、自分と異なる自分で、人格が分かれてしまう。)
 私は、自分視点のゲームの中で、自分の職業、役割を選択し、経験値をあげる。自分の服装や、防具、武器を強化していく。さらに、自分の家を作る。
 ゲームでは、最終ゴールが決まっている。永遠と終わりのないゲームもあるが。ゲームの目的は明確でその中での選択肢が決まっている。
 
 一方、私が毎日繰り広げている現実でのゲームは、最終ゴールが、死が決まっているだけだ。それはいつやってくるか分からない。死に至るまでの暫定目標は自分が置かれた環境の中で時々に選択し、私がそれに満足するか、しないかだ。
 私がそれに満足しないと言っても、何も変わらない。満足していなくても時間は過ぎてゆく。日々、私に残された時間は目減りしていき、かつ、そのゴールは突然に1秒後に来るかもしれない。
 私は、この残された時間がいつ来るか分からないことを希望とし、生きている。
 私は、現実の世界でも日々に私の防具と武器の機能強化をし、家をより良いものにしようと努力している。私がゴールにたどり着くときには、私はこの身一つで防具や武具は役にたたず、何一つ持つことができないことを知りながら。
 神の視点で人々を眺めれば、こせこせと皆同じことをしている姿が見えるだろう。立派な防具に武具、それに乗り物、大きな城を作りあげた人を見つけることができるだろう。大きな城のその周りには、それに仕える使用人や町人がいて、城下町が形成されているのが見える。
 私は、この城下町の住人の一人だ。そして主要メンバーではないと思う。それでも、この城下町の中の一角を占め、ヤドカリのように私の足場を固めている。
  この神から見たミニュチュアの世界で、私は、妻、子が幸せに暮らせることを願っている。彼女、彼も、このミニュチュア世界で、それぞれに自分の世界を持っている。
 このことを知りながら、私は、彼女、彼に決定的な役割を果たすことができない。彼女、彼の、私の今、この一時が暮らしやすいようしているだけだ。その努力も私が気がついた時にするだけで、よく忘れている。
 
 言葉のゲームは、そろそろお仕舞い、子と一緒に飛行機を撃墜しようか、狩にでも行こうか。ゲームを楽しもう。