私の時間および自己中 1

 私の時間、一人でいる時間、静かな時間を持とう。この「私の時間」は、人に邪魔されない時間のことだ。
 「私の時間」には、二つの意味がある。人に邪魔されない時間という意味だけではない。
 二人でいても、たくさんの人と一緒に過ごしていても、私の時間は私だけの体験であること。どんなに仲間や家族と一緒に楽しく過ごしても、悲しんでも、本当には時間を共有していない。共感することがあったとしても、相手が本当にはどのように感じているかは私は分かっていない。
 同じような楽しさ、悲しみを感じていることを私は推測ができるが、相手当人の感覚では理解できない。私が、当人になりかわることはできない。この意味で、時間は共有できない。私はいつも一人である。
 二人が向かい合い、お互いを見つめるとき、お互いの世界、視覚は違う方向、正反対の向きが見えている。どれだけ仲が良い人とすごす時間も、お互いの世界が見えている訳ではない。
 二人で旅行に行って同じ体験をしていても、厳密には同じ体験はできない。二人で同じ景色を眺めても、視点は異なり、その人の視力によっても見え方が異なれば、人生での経験によって、風景から受ける印象、感傷もことなってしまう。
 人は、私の世界の中に閉じ込められ、絶対的に一人で過ごしている。
 話相手があることは楽しい。それでいても、私は一人だ。互いに干渉しているようで、直接に互いの世界を行き交うことはできない。私は他者の世界の役者の一人となることができるだけだ。
 自己中心的、「自己中」という表現(個人主義かつ利己主義的人物を非難する用語のようだ。)を私の子がするが、世界の認識としては、自己中は間違っていない。誰の世界でも、世界の中心は自分だ。「他者中」の体験をした人は、シャーマンくらいだろう。
 子の言葉遣い、意味での「自己中」の何が問題なのか。私の世界に登場する役者たちも、自身の世界を持ち、彼らが皆、彼らの世界の中心であり、自己の利益を確保することを目的として生きていることに気がついていないこと。他者の自己中に対して敬意を持たないこと。これが問題だと思う。
 私は、きわめて自己中な人だと思う。ただ、他者の自己中は、自分の自己中と同じく尊敬すべきと思っている。生活の中で、このことを忘れ、特に自己主張が少ない他者(いわゆる自己中でない人)に対しては、その者の自己中を傷つけているかもしれない。
 今、こんなことを言っていても、いつも私が一人であるという事実は、いつも忘れていると言ってよいくらい忘れている。普段の生活で、自分が自己中、世界の中心だと、他者の世界が覗けないと感じていることはない。こんなことは、きれいさっぱり忘れて生活を楽しんでいる。
 でも、夕焼けを見るとき、星を見るとき、街の光を眺めるとき、遠くの山の稜線を眺めるとき、これらは、子供の頃からずっと眺めてきた風景だ。少しの時間に一人になる時、子供の頃からの風景に戻る時。このことは、私が一人であることを呼び起こしてくれる。この時間は、大切であり、愛おしい。