意味

意味について最近考えている。意味ということ自体の意味を考えるのだが、物には名があり、名が示す意味はその物だが、物自体の意味が何か。

物自体に意味があるか無いかは、人がその物の使用目的から考えて、物に意味を見い出す。この時に言う意味は、使用目的、目的遂行のためにその物が存在しているという考えを意味と呼んでる。
目的遂行のための存在が意味であれば、目的は人が決定しているだから、人が目的を解釈すること以上に意味は存在しないということになる。この点で、物事は人の解釈以上の意味を有さない。
意味は、人に作られるものであって、初めから物に存在する意味を人が発見するものではない。意味を見つけ出したということは、その人が、ある文脈の中で、その物の役割(意味)を構成(解釈)したということだと思う。(ペンを見つけたとしても、その意味は字をかけば通常のペンの意味だが、それで頭をかけば孫の手の意味、もっと違う使い方を見つける人もいると思う。高級ペンであれば、むしろ書くこと以上にそのペンは高級であること、地位を示すことに意味がある。)
であれば、物事の側には意味がないということは、世の中に存在する意味や意義は全て、人が構成した意味や意義ということに帰結する。

言葉で構成される意味というものは、初めから人が使用する言語である以上、その範囲内でしか構成ができない。そう考えれば、仮に言葉を超える意味が存在するとしても、その意味は言葉では表現できないし、言葉で表現できない意味は、言葉を使用して理解する思考では理解できない。だから、そのような存在は仮定をしても理解不能ということに帰結する。

このことは、意味について考えても、世に絶対的な意味というものなどない。言葉を超えた意味など意味として理解できないことを言っている。
全ての意味は、人が構成した合意内容(個人の中でもその人自身が自身に合意した内容)でしかなく、この合意も世の流れ、言葉の移り変わりによって変化していくものでしかない。

世間では、様々な物に意味を見い出し、色々な人が苦労をし、争いを繰り広げているがそれも、この意味ゆえのことだ。この意味が、幻のようなもの、解釈、合意に過ぎないことは、知っているのか、忘れているのか。
それでいて、この幻を互いに合意すべく努力し続けなければ社会は成立しない。個々人、互いの意味をぶつけ、そして両者の意味を理解しあうこれが社会的活動、いわゆる創造的、クリエイティブな活動なのだと思う。
我々は、意味の在り様を気にしようが、気にしまいが、結局は意味に囚われ生活せざるを得ない。むしろ無意味を受容することの方が難しく、言語活動を通して結局はこの無意味ということにさえ意味を見い出すようになるだろう。

おまけ
ペンは物を書くために存在するのだから、それがペンの意味だが、違う使用方法があるからと言って、違う使用方法がペンの意味にあたるのだろうか。という疑問は残る。ペンの本質を考えれば、書くことがペンの意味であって、それ以外の目的は派生的であり、むしろそのような使用方法は、ペンではないとさえ言える。
この時に、ペンと言う言葉には本質的に書くことが含意されており、名詞の中に既に意味(使用方法)が決定されているということも言える。名詞の中に意味が決定されているとき、名詞とその指示する使用方法が決定されている時には、その言葉を使用するにはその意味を知っていなければならないので、ペンの意味は書くことに決定されてしまう。
こうすると、名詞の中に既に意味が規定されている以上は、言葉の意味が移り変わっていく以上には意味は解釈できないとも言える。
ただ、ここで本質という言葉を使用したが、何が本質かということについては解釈の要素が入ってくる。そしてそこに争いと合意が生まれるのだろう。