風景

今日、久しぶりに川岸を自転車で走った。
いつも感じるのだが、堤防の上から眺める風景は広い。街中に住んでいると開けた場所がなく、視界にはいつも建物があり数十メートル程度で遮られてしまう。
ここでは、遠くの山や、ビルがよく見渡せる。
この風景の中に自分ひとりがいることは、そして風景の中で、私が立っているこの場所から、私には世界に何にも関わりがない。この瞬間に私がいなくても、気がつく人は誰もいない。
世界と私は、隔絶しているのだが、それでいて、この世界は私の視界の中に存在する。もし私がいなければ、この世界は消える。無論、私の中だけで、完結し消えてしまうだけだが。
川を眺めているとボラが飛び跳ね、チャポンと音がする。大きなものは、30センチくらいはある。魚が水面から跳ねた時に、何が見えるのだろうかと思う。
私が、跳ねることはないのだが、跳ね上がったときに見える風景は何か違うのだろうかと思う。

目的論の誘惑
私が、魚を跳ねるのを見るとき、魚は何故跳ねるのだろうと考える。そして魚には何か目的があって跳ねているのではないかと考えたくなる。
同様に、私は跳ね上がるべき何か目的があるのではないかと考えたくなってしまう。
水底に住みつつも、いつか光輝く、水面を越えて飛び出す時があるのではないか。一瞬の出来事だろうが、その時の風景には何か意味があるのではないかと思う。
この意味というもの、何か目的を示唆しているのだが、意味を考えることは、物事の目的を考えることだと思う。しかし事物の存在から、目的を解釈することは誤っているように思う。「蜂が存在するのは、僕がハチミツを食べるためにある。」と言ったクマのプーさんと同じだ。
私の存在が目的を有しているわけでなく、むしろ私が目的を生み出すのだろう。私というものには、この視点であれば意味はない。
意味がない私が、意味を作り生活をする。そして、飛び跳ねる何かを探したくなる。