物語について 子との対話

物語と言うと、ストーリーを語ること、お話を語ることのように、感じているが、ここで言う「物語る」ということは、事実ということを語るときにおいてさえ、それは、話し手の物語でしかないということだ。ここで、子から質問があったのだが、では事実が存在していないのであれば、そもそも語ることがないのじゃないか。ということだ。もちろん実在的出来事は起こっているのだが、この実在的出来事とは空気の中の分子の動きまで含め、全宇宙で生起する出来事の全てをイメージしているのだが、この中から話者が切り出した出来事だけが、事実として語られる。多くの出来事は、事実から抜け落ち、話者の視点から捉えたある話題だけが切り出されている。この意味では、事実は話者の視点、文化、考えによって切り出され方、事実とする話題も異なってくることになる。

一つの出来事を二人で体験したとしても、各々が事実とする出来事は、異なる視点で体験されており、感受性の違いからも解釈、出来事として切り出す際の重点が異なってしまう。通常の意味では同じ事実を体験しているのだが、この二人にとって事実は必ずしも同じではないということが生じる。
人と人が理解しがたいのは、ここでの二人は、互いに自分視点での物語りをし、同じ出来事について語るのだが、自分の物語が実在的事実と勘違いしてしまうところにある。二人は通常の意味で同じ体験をしたのだから、語る内容は同じように思われるだが、二人の切り出しかたの違いによって、互いの事実は実在的事実から解釈となる。では、事実とは個人の物語り、一つの幻想のようなものに思えてしまうのだが、一歩進めれば、この二人の間の事実とは互いの物語りを聞き合わせ、そして互いが合意できる事項、この了解が二人の間の事実となる。では了解がとれない場合には実在的出来事は消失するのかということでもない。この時には、二人の間には事実と語れるものが了解されないということだ。そして、一人、一人の中に事実が記憶され、この二人は理解しあえない。

私は、今朝、紅茶のポットの中を覗いて紅茶がなくなったと言った。子は、「その事実は私が認めて初めて紅茶がなくなるのね。」と言った。確かに、子はポットを覗いていないので、私の言を信じない限り、紅茶がなくなったことを認める必要は無い。この時に二人の間には、紅茶がなくなったという事実は存在しないのだが、子が紅茶を飲もうとして、ポットを傾けた時には紅茶は存在しない。そして子は、事実として紅茶がないことを理解し、両者の間には紅茶はないという事実が生まれる。
この事実が生じたのは、物理的にはポットから最後の一滴が絞り出された時なのだが、私がこれを観測した時点で私の事実、子が観測した時点で二人の間での事実となっている。

事実ということを人が了解する時、どの意味、レベルでの事実なのか。事実に関する物語りという行為、これが人にとっての事実の本質であることを理解する必要がある。

今日、野矢啓一さんの本を読んでいたら、子から物語ることについての質問を受けたので、その時の要点をまとめておいた。まだほとんど読んでいないので、本の内容とはだいぶ違うかもしれない。