お口に合いませんか。

   あなたのお口に合いませんでしたか。という言葉、実は、美味いものを美味しく思えない、あなたのお口が変なのですよ。食べ物自体がまずいのではない。ということを言っている。
   このことを、味覚の嗜好の違いにかこつけて表現しているようにしか、思えない。
   昨日、私が自分で数日前に作っておいた牡蠣のオリーブオイル漬け(蒸しあげたものに胡椒をふって漬けている。)を食べてみたのだが、とても美味しかったので子と妻にすすめたところ、あまり口に合わないということだ。そこで、私は冗談まじりに、あなたのお口には合わないようですね。と言った。
   牡蠣のような食べ物は、もとより好き嫌いがはっきりする食べ物なので、美味しい牡蠣であってもお口に合わない人が出てくるのは当然だと思う。こう言う私も、以前は牡蠣は嫌いだったのだが、少しずつ食べ始めやっと、好きになったところだ。
   この時、私は何気な言ったのだが、子は冗談ですませない。自分が美味しいと思っているものが美味しいと思っているでしょう。ときた。
   当たり前の話だが、自分が美味しいと思うものを美味しくないと決め付ける人はいない。自分が美味いと思えば、世界中の人間が反対しようが、それば美味いに決まっている。世の中に初めから美味いと決まった食べ物などない。このような美味いということ、そのもの自体として存在する食べ物があれば、神が食する食べ物だろう。世の中にある食べ物は、全て人が食べて初めて、美味いか不味いかが決まるのであって、食べる前に美味いわけではない。食べ物の中には、確かに美味いと感じる成分、香りや糖分、酸味、コクなどがあるが、これは成分であって美味さそのものではない。
   では、普遍的美味さや不味さが無いのかと言えばそうとも思えない。もし美味さが個人の嗜好のみに存在するとすれば、美味しい料理という文化自体が成立しなくなるだろう。京料理が成立するのは、一つの味の理想形がおぼろげながらにも、料理人や、食する人に共通する理解があるからこそ成立するのであって、美味しさの普遍性なしに一つの料理文化は成立しない。
   この考え方であれば、美味いということは、料理を賞味する際に共有する感覚での基準、この基準は、大きく料理、日本料理、京料理とあとは、細かく分類化され決まっていくのだろうと思う。この京料理という分類の中で、自分が美味いと思うものこそが美味いというには、その基準内に自分の基準を納めた上でのことだろう。
   昨日、私が美味いと思った牡蠣のオイル漬けは牡蠣料理、ワインのあてという分類下であれば美味いと思う。
しかし、同じ分類の基準(世界)にいない妻と子にはあまり美味しくはなかったのだろうと思う。
(なお、妻も子も生牡蠣に粗挽きの黒胡椒にニンニクの刻み少量、それにレモンをかけたものは好きだ。シブレットがあれば一段と美味しいが。)
  私の感じる美味いということと、あなたが感じる美味いということのずれ、この絶対的に自身が住みついている世界の相違、すれ違い、ほぼ同じ時空に存在しているように思っている二人の間での相互理解の不可能性、これが私が言う「あなたのお口に合いませんでしたか。」ということ。
  この相互不理解が人間が生きる世界のアイロニーであり、ギャップ、ユーモアであるように思うのだが、このユーモアは子には面白くないそうだ。父のユーモアは、笑えなく色で言うと白でも黒でもないグレーだそうだが、このグレーを感じることこそが人間のアイロニーでありユーモアのように思う。
  そこで父のユーモアは、あなたのお耳にあいませんでしたか。と思う。