バカについて(父と二人の子の対話)

子A よく人のことをバカと言って見下している態度は腹が立つ。その人の何が分かってバカと言っているの。
 
父 それでは、その人の全てを知り尽くした上でしか、バカと言えなくなるよ。そしてその人の全てを知り尽くすことなんかできないからバカという言葉は、誰も使えなくなる。それは困らないか。それに、普遍的バカが存在すると思っている。プフ。
 
子B バカの格好をしている奴を、外見上バカに見える奴をバカと言ってはいけないのか。バカかどうかは、人はほとんど外見上で判断しているのではないか。金髪をしたり、学生服の下からスウェットのフードを出したり、学校のルールが決めていることを、あえてしている人は、バカではないか。
 
子A そういう外見から観てバカという判断ができるの。その人の置かれた状況や考えも知らないで外見だけでバカということは、あなたもバカにならない。
 
子B その人がどういう環境にいても、わざわざルールを破って回りに迷惑をかけることはバカだろう。同じ環境にいてもちゃんとしている人はいるし、その人のことは気づかないだろう。まわりの気を引きたくてやっているだけなんだよ。
バカをバカと言うと、どうしてバカになるんだい。それなら、そう言った人もバカになるんじゃない。
 
父 人は、全てを知ることはできないし、普遍的なバカ、バカの理想像が決まっているわけではない。だから、自分で人を見下すことが、愚かだと知りつつも、その気持ちを捨てることはできないし、人をバカにすることが愚かであることを知りながらも、人をバカと呼ぶんだよ。人をバカにして、自分も人からバカにされる。バカは循環している。それが分かっていれば、人をバカと呼ぶことも、自然な気持ち、行為ではないかな。
大人になっても、作業服を着て電車に乗ることを嫌う人もいるが、その背景には作業服をバカにしているんだよ。バカでもネクタイを締めていれば偉く見えてしまうからね。私も、普段はネクタイをしないけど、偉く見える方が良い時はネクタイをするんだよ。バカと言わなくても、外見で人を見下すことはあるし、そして、人を見下すことが向上心や闘争心に繋がっているのかも知れない。自然な感情として人を見下さないことは、とても難しいし、そのような感情を持つことができる人はすばらしい。南無という感じかな。でも他人との競争というものに向いていないのかも知れない。
余談だけど、私達の後ろには理想のバカがいて、その姿にさらに後ろから光が投射され、私たちはそのバカの写し、影絵を見ているに過ぎないんじゃないかな。その写しは、人それぞれにあるということだ。振り返って、その理想のバカを直接みることができればいいんだけど、人はその姿を見ることはできないように前向きに固定されているんだ。もし人が見ることができれば、そこには、自分の姿そのものがあるのかもしれないよ。
 
子A あ~疲れた。