暴力考2

 良い暴力と、悪い暴力があるか。暴力とは力に依存することだと思う。社会には規範を強制する力がなければ、社会たりえない。
 この強制力が良い方向に向かっているか。悪い方向に向かっているか。社会の規範自体に悪が含まれていれば、社会が認める強制力にも悪があるのではないか。この良い方向、悪い方向は誰にとってか、誰が決めるのか。これは、誰にも教えてもらうものではない。集団の指導者や教祖が、決めたからと言ってこれにそのままに従うことは、暴力に従属しているに過ぎない。何故良いか、悪いかこれは私が判断する他ない。他人に聞いて教えてもらっても、結局はその教えが正しいかどうかを私が判断する必要があるからだ。
 この良い方向に向かう暴力は、暴力たりえるのか。言葉の使い方としても既におかしさがあるのだが、私が悪い暴力に対抗するのに使う暴力は、良い暴力と言えるのだろうか。世界には、平和維持活動として国家レベルの喧嘩の仲裁にやはり軍隊を使用し、実際に発砲をする。個人レベルでは、殴られている友人を助けるために、殴っている当人を殴りつけることが許されるのか。
 人は、自分の目的達成のために、やはり力の誇示、行使をする。ヤクザはヤクザと分かる格好をしているし、ヤクザでなくても、すごんて見せることはある。これは会社で上司が部下をしかるときも同じである。物の売り買いでも同じ。不公正な取引で顕著だが、力を誇示、行使せずに目的を達成することは難しい。
 どのような力の行使も、それが人を強制するもの、それが暴力足りえるという認識が正しいと思う。自分の力の行使が良い暴力であるか否かは、暴力を受ける人にとっては関係がない。やめて欲しいだけだ。暴力を受ける側にとっては、ただ力の誇示と行使の仕方が、強いのか弱いのか程度の差に過ぎない。力の行使が過ぎれば、どのような力の使い方も社会的にも暴力と認められる。身近に言うと、暴力は、お客や上司に張り倒されるか、罵倒されるか、やんわりと怒られるかの違いだ。
 良い暴力と、悪い暴力に違いはない。同じ現象を目的を通して良いか悪いかを個々に判断しているに過ぎない。人殺しは暴力だと思うが、死刑の執行や、戦争での殺戮は正当化される。軍隊でも民間人を銃殺すると法に違反するが、飛行機での爆撃では、民間人を目標にしてもこれは法に違反しない。
  子供への体罰にしても、愛があれば許されると言う議論があるが、愛の有無は子供には関係がない。愛で殴られる子供は、殴られる度に感謝しなければいけない。愛を主張する人が行う体罰は、自分の優位、大人の優位、腹立たしさを子供に伝えたいだけである。思わず叩いてしまったと言っても、自己満足のために叩いているものと思う。
 私は、一度、子の頭を叩いたことがある。世の中には暴力があること、自分の発言が暴力を呼ぶことがあると、実際その時は、子も1回は痛い目に会わないと分からないと考えた。これが愛のある暴力だろうか。私は、この時まさに暴力を振るったと思う。子の力では、それは防ぐこともできなかった。防ぐことができない者への力の行使。この時、叩くかどうか迷ったと思う。叩かずに言葉を使う選択肢もあったように思う。
 人は、暴力を振るわずには生活をすることができない。この暴力に良い、悪いを付けるのは自分だが、良い悪いにかかわらず、自分が暴力を行使していることをよく見つめる必要がある。自分が今、暴力を行使している認識がなければ、我を忘れて暴力を振るい続けることとなる。