力 暗黒面って何

 暴力は何故行使されるのか。社会において暴力は是認されている。
 暴力の行使を社会は否定しているが、これが表向きのルールだ。裏向きでは暴力と呼ばずに平然と暴力を行使している。大きな意味での暴力を、より下位のフォルダに分類して暴力と呼ぶフォルダ、別の呼び名をつけたフォルダに振り分けている。
 社会では、一定のルールのもとに力を行使することは暴力とは言われない。今、日航の社員が大量の首切りにあっているが、これは暴力とは言われない。首切りは、事業の再構築に必要な行為であって、リストラと表現されている。
 リストラに限らず、社会には個人では抗しきれない暴力が存在する。しかも非合法でなく、合法に暴力が行使されることがある。
 社会は、暴力を一方で否定しながらも、暴力を行使することによってその規範、求心力を維持する集団だ。どのような暴力が否定され、どのような暴力が容認されるのか。合法的暴力は、集団での意思形成過程がある程度わかるが、合法、非合法の範疇にくくれない暴力、集団での個人の無視については、集団での裏向きのルールに反したことに気がつけない者は、何故暴力が振るわれるのか分かりもしない。この裏向きのルールはボスの気を損ねた。これだけで十分だ。
 個人は、社会なしに成立しない。個人の生存の基礎がすでに社会を根底としているからだ。個人が社会の暴力から身を守るには、自分が属しているグループがどのような暴力を容認しているかを判別し、これを事前に予測するしかない。予測可能なものは回避できるだろう。
 自分の属するグループでは、個人は自分が行使できる暴力、これをグループ構成員に見せなくてはならない。俺がOKしないと上手くいかないよ。ということを普段から周りの人達に意識させることだ。これが上手な人は意識しなくてもやっているし、暴力だとも感じてもいないだろう。これを下手な人がやるとパワーハラスメントと呼ばれる。本質的に、他人に強制する力、この行使なしに、人々は社会を運営することがでいない。
 小さな社会であれ、大きな社会であれ暴力は公認されている。ただ、その暴力の使い方が、合法、非合法か、理性的、反理性的であるかの違いで、暴力と呼ぶか、呼ばないかが生じているに過ぎない。理性的、反理性的にしても多くの事柄は、構成員間の力関係で理性が決定されてしまうことがある。
 暴力反対を叫ぶことは簡単だし、誰もこれに異はとなえないが、社会が認める暴力に反対することには勇気がいる。その暴力に反対すれば、自分に矛先が向かうことは、ほとんど確実だ。その社会からの離脱することも考慮しなければできないだろう。
  
 子が尋ねたことだが、喧嘩を止めるのに暴力を行使してよいか。喧嘩を止めた相手が殴りかかってきたら、殴り返していいか。
 その時は、冗談まじりに「喧嘩はだめだ。バカヤロー」と言って相手の顔面にパンチをしてやればいいと答えた。
 実際に暴力を止める方法は、自分の力が相手に対して優勢であることがはっきり示せなければこちらも暴力を直接行使するしかない。(自分の力を誇示している時点ですでに暴力の存在を肯定しているのだが)
 良い暴力、悪い暴力があるのだろうか。