時間というもの

   先日、久しぶりに駅前を通りがかった。以前にあった店はなくなり、新しい店に変わっていた。ビルが丸ごと変わっているところもあった。子供の頃、母に連れられて買い物に行ったデパートは姿を消した。
   デパートのエスカレータを上る時は、自分の買い物でなくても嬉しくて、そのころの街の雰囲気そのものがときめいていたように思う。
   そういう駅前も、今は多くが姿を変えた。また、駅前に行く通りも子供の頃は細い里道であったのに、今は大きな道ができている。普段気にしていないところで変化があり、私はそれに気がつかないままに過ごし、そして時折に気がつき、何かを失くしたかのように時折に思う。
 
   私は、一期一会という言葉を単に人との出会いの意味でなく、より広い意味で考えている。
   一期一会という言葉が示すのは、私が立ち会う時間と場の全てを対象としているし、一期一会という言葉は、生が刹那であること示し、生そのものが一期一会であるように思っている。楽しい時は、その時限りであり、これを振り返る時には既に、楽しさは過去である。どのような瞬間であれ、振り返る時には過去である。全ては、その場、その時限り。
 
   私は、それでいて実生活では今という時を一期一会として意識できない。むしろ、時間を意識している際には、未来の時間を目標に今を過ごしているように思う。いいことであれ、悪いことであれ、未来のその瞬間が到来することを意識し、その準備を今しているのだ。月曜日が始まれば、土日の到来を待ち、1日が始まれば仕事の終わりの時間を待つ。労働は私生活とは分離している。私生活が私の時間という風に考えると、時間の質は分断されている。この時間の捕らえ方は、学生時代から同様であり、私的時間と公的時間の分断が習慣化し、生活に染み付いている。時計やカレンダーを見ると、時間の到来を指折り数えている。
   私は、今を生きるのだが、未来と過去に目を向けて生きている。私の思考は、過去と未来に向かう性質を持ち、今を思考しない。また、今を言葉にしろと言われても、漠然として今としか言えない。私が今を言葉に直す時、その時には、言葉にした対象の時間は経過している。例えば、私が自転車に乗って風を切るとき、その瞬間が今なのだが、これを言葉に直した時には過去である。言葉によりすくい取ることできる時間とは、現在を対象としていても、言葉にした時にはその瞬間は過ぎ去っている。
   楽しいという言葉を発する時、私は楽しいのだろうか。本当に悲しい時は、私は言葉を発するのだろうか。この言葉は気づきによって発せられる言葉であるが、この言葉を発した途端に悲しみや楽しみの瞬間は過去になる。
(一方で、憎しみの言葉を吐き出す時、悲しみの言葉を吐き出す時、その感情は増幅するようにも思う。憎しみの感情が言葉によって、対象を明確化し、明確化した言葉を対象として新たに憎しみの感情が生まれる。このことは、むしろ言葉が感情を再現し、反復することによって現在を生み出しているように思う。言霊という言葉があるが、言霊とは、このような言葉の反復による感情の増幅と固定化から、その力を生み出しているように思う。)
 
   一期一会とはこの言葉を発する前の瞬間、その時々の言葉によらない世界の捉え方のように思う。言葉で過去をすくい取るならば、一会は複数回の解釈をもって理解し語ることができる。本来、一期であるとはすくい取れない時間であるからこそ一期であって言葉による反芻ではない。
   私の時間は、全て一期であり、私の空間は全て一会のものだと思う。このように考えると一期一会の言葉は、平常の時間と空間に還元され、特別なものでもなく、当たり前のことを言っているだけ、私の解釈も意味を失うようにも思う。
   事実、私は、私の時間と空間は一期一会ということを意識しないままに暮らしている。充実した時間、知らぬ間に時間が過ぎた時には、一期一会は意識できないが、一期一会を体現したように思う。このように時間を過ごした時には、私は時間を振り返ってもあまり記憶がなく、振り返った時には、何かが面白かったように思うのだが、結局、何が面白かったのだろうと感じている。
   私には面白かったことは記憶できないし、一部に残った記憶も言葉である。多くの面白かったことは記憶されないままに過ぎ去っていく。このように考える時、一期一会と言う言葉が頭に浮かんでは消えている。