子との対話(権利の存在について)

夕食での会話、子は、高校の倫理で権利について学んでいる。
 
子 自殺しようとしている人を止める権利は、あるでしょうか。
 
父 その人を止める力があれば、止める権利はあるんじゃない。権利というものは、力の行使であって、止めさせることができる人には、その権利がある。
 
子 力を行使することは、権利じゃないのでは。
 
父 権利には、理念の面と、力の行使の面の両面がある。世界の人すべてが幸福に暮らす権利があると言っても、理念的には、そのような権利は存在するかもしれないが実現できない、実現する力を持たない権利は、在るとは言えない。
目の前にピストルを持っている人に対して、あなたには私を殺す権利はないと言っても無意味だろ。そんなこと
を言っても、引き金さえ引けば死んでしまうのだから。生殺与奪は、目の前の人の考え一つにあるんだ。私なら、
その人の権利を認めて、お金を払うとか考えるけど。
 
子 じゃあ、実現する力がない弱者には権利がないということ。強者だけに権利があることにならない。
 
父 どのような、権利も強者の力の裏づけがあって、初めて権利と言える。日本では、国家権力に認められた権利が、国家によって強制させているだろ。今、日本で認められている権利は、日本の法律で定められた範囲だ。そして国家の前では、誰でも弱者だ。それでも、日本の法律を守らないことを初めから決めている人に対しては、日本の法律も有効ではない。ピストルを持った人の前で権利を主張することは馬鹿げているだろ。権利とは、相対的なものなんだ。
 
子 弱者は、いじめられっ子は黙っているしかないの。弱い者をいじめる権利はだれにもない。
 
父 弱者を守るために、法律があるんだが、自分で声をあげない弱者は誰も助けない。弱いものをいじめる者に対して、あなたにはその権利がないと言える力がなければ、それは権利にならない。権利の上にあぐらをかくものは救済しない。困った人の全てが助けられるのではなくて、権利は自分で助けを呼ぶ人を助けるんだ。
労働者がサービス残業をすることは、法律上は必要がないことだが、労働者が自分でそのようなことをしないと
主張しないと権利は実現しない。理念上でいくら存在する権利でも行使しなければ権利にならないんだよ。
 
子 何かおかしいと思うんだけど。学校でならう権利と違う。
 
父 学校で習う権利は、主に理念的な面を教えているんだ。権利は力によって勝ち取られたものだ。権利だけ叫ぶ人がいるけど、権利の理念の面しか教えないとそうなってしまう。権利があるところには義務が必ずある。民法という法律の考えに同時履行の抗弁権という考え方があるんだけど、お互いに何か契約する時は、特に取り決めをしなければ、互いに同時にそれを提供しなければいけない。商品の売買をすれば、買った人はお金を提供する義務があるし、売った人には商品を提供する義務があるんだ。それはお互いに代金をもらう権利だし、商品をもらう権利でもある。だから権利だけが存在するということはない。権利があれば義務があるし、義務があれば、それを実行する力がなければいけない。
 
子 じゃあ、ピストルを持つ人には人を殺す権利があると言ったけど、撃たれる人には死ぬ義務があるの。死ぬ義務なんて直感的におかしい。
 
父 たしかに、死ぬ義務はおかしいな。だけどピストルで撃たれると結果的に必ず死んでしまうから、その人には死ぬ義務があるんじゃない。何回撃たれても死なない人がいれば死ぬ義務はないけど。日本には死刑があるけど、この時には、殺される人に死ぬ義務があると言えるよ。ヨーロッパはそのような義務は認めていないけど。戦争で人が殺される時も、殺される人には、そのような義務はないと思うけど、相手方からすれば戦争のための尊い犠牲であって、その人は死ななければならなかったと言うと思うよ。この意味で、権利は相対的なものでしかないんだよ。理念上の権利は、人を殺す権利でさえ立場によって異なるし、実行力の存在で権利と言えるかどうか決まる。また、実行力のない理念だけの権利も潜在的な可能性としてはあるかもしれないが、それを権利が在ると言えるかどうか。
 
子 お皿をかたずけて、分かったんだけど、私に食べられた豚からすれば死ぬ義務はないように思うけど、やっぱり食べられた豚には死ぬ義務があるんだ。
 
父 。。。。。
 
 
 
後記
殺す権利については、理念上も存在しないのかもしれない。
日本には死刑があり、国家にその権利が認められているが、それは本当に権利なのかと考えると、生殺与奪に関しては、権利概念から外して考える必要があるのかとも思う。
子が疑問に感じる死ぬ義務は誰にもないということは、普遍性を持つ真理なのかもしれない。
ただ、生には死があるだけであり、死は人がなす行為と言えない。生物は生きることが本質であり、死ぬことは生物の結果でしかない。それを死ぬ義務という行為(生きるという生命の本質から外れた設定)で考えることに無理があるようにも思う。首を吊られる義務と死とは別に考えれば整理できそうに思うが、分けて考えることも形式上の整理でしかない。
人が人を殺す時には、権利でなく、ただ事実がある、利便として、手段として人を殺しているそのように考える方がしっくりするのかもしれない。