車社会考

 高速道路での考え事。
 この渋滞で何人の人がいるのだろう。20mで6台、1台2人で、12人、100mで60人、1km600人、渋滞8kmで4800人が同じ渋滞に会っている。
 左側から追い抜いて、自分の前に入ったと思ったら、すぐに右車線に割り込む人、初めから右車線へ出ればいいのに。どれだけ急いで、どれだけ早いのだろう。渋滞の中で急いでも5分も変わらないはずだ。5分早く出発すれば済む話なのに。
 渋滞の車の列では、少し前を空ければ車が割り込む。車間を広めにとると割り込まれる。車間を広めにとりたい私は、一番左側の車線を走るのだが。
 ここに居ている車、渋滞全体がゆるやかな社会と化している。共通性は、同じ時に同じ方向を向いて皆走っている。皆、この渋滞から抜け出したいと思っているが、図らずもここに集まってしまった人達だ。少しでも同じ空間で同じ時間をやや不愉快に過ごしている。ゆるやかな運命のようなものを感じる。
 進む方向は皆同じだが、車の1台、1台の思惑は別だ。今は一緒でも、行き先は皆違い、やがてはばらばらに散っていく。仕事で走っているのか。デートの帰りなのか。家族旅行なのか。一人なのか。帰りを待つ家があるのか。
 少しの間、車を止めて端からこの風景を眺めたいくらいだが、高速道路で立ち止まることは許されない。
 車を走らせながらでも眺めていると、いろんな意味で他人より前に出たいという人がいる。車は、服装の延長だ。その人が見栄を張りたい人はそのとおり、人を威嚇したい人はそのとおりの車の様子をしている。一目で近づかない方がいい車は、皆同じ姿をしている。
 粗暴な運転をする人は、自分が粗暴であることを周囲に知らしめてそれに満足している。本当は車という道具が危ないだけなのに、自分の力を強いと信じて快感を得ている。こんな人は、渋滞もそれなりに楽しんでいるのかもしれない。私がその人の隣に乗ることがあれば、二度とその人の車には乗るまいと思う。
 助手席に乗っている女性は、彼氏がパワフルな運転をすることに力を感じて、やはり同じく楽しんでいるのだろうか。彼氏は車で、鳥や魚のように求愛のダンスを踊っているのかもしれない。
 そんな中で、合流路に差し掛かり前方にバスを入れた。ありがとうの合図を返してくる。仕事の車は、概して前に入れるとあいさつをしてくれる。仕事の知恵、マナーなのか。
 渋滞をしていると割り込ませないことに必死になっている姿の車があるが、これはその人の姿がそのままだと思う。割り込ませないことにどんなに価値があるのだろう。渋滞の列で、自分の1台前に車が居ても何の影響もないと思えるのだが。
 しばらくすると、渋滞は自然と解消した。何がさっきまで詰まっていたんだろうと思うが、車はばらばらに散って過ぎ去っていき、私もさっきまで参加していた緩やかな社会から抜け出してしまった。