働くことの意味

 労働は生活の糧を得るためにあるのであって、本来は労働自体が生活の目的となることはない。
 生活の糧を得るための労働が、生活そのものに転倒した。社会の生産性から考えれば、人が生活の糧を得るために1日8時間働く必要もなければ週に5日も働く必要ははない。にもかかわらず、実際には、このような条件であればかなりの好条件の労働だろう。
 仕事先では、時給800円から900円のアルバイトをしながらも、ブランド物の財布を持っている人がいる。安い労働力で、高価なブランドを購入してくれる国民がいることは、資本を持つ者には好都合だ。
 安い賃金で作った商品を、作った本人が高く買ってくれること、社会全体ではこのような構図だが、この構図は、やくざが人夫を手配し、人夫が得た金を賭場で巻き上げる姿に似ている。アルバイトをしながらブランドの財布を持つ人は、この事実を知りたくもないし、むしろブランドに満足していると言うだろう。ブランド品の購入は庶民のささやかな階級を超えた冒険なのだろう。
  
 会社と言う世界での労働で自己実現が出来ると考えることは、会社員に定年があり、役職は喪失すること、自分への社会的評価が会社での役割に過ぎないことを考えれば、会社での役割そのものが自己でないことは明らかだ。役職や会社の肩書きを無くした自分がどれほど尊敬されるだろうか。
 少なくとも、今の労働を自分の意味とすることには、その労働が自分で尊敬できるものでなければならない。自分で尊敬もできない仕事が自分の意味となる訳がない。
 よく働くことは、非難すべきことでもないし、されることでもない。気持ちよく働くことは自分にとっても大切だし、自分と付き合うことになる人たちにとっても重要だ。
 このよく働くのよくが問題なのだ。誰にとって良いかが問題だ。自分にとって良いか否か。働く目的と量が、その人の最低限であり十分なものであることを考えなければならない。
 人に使われて働く人は、働くことの目的をまず考える必要があるし、本当に労働している自分を自分と決めることがよいのかを考える必要がある。これを考える暇もないような状況であれば、何かが間違っているのだろう。
 今、私がよく働いているかは、難しい。仕事をしているときは熱心にしている。時間を忘れている時もあると思うが、本当に自分がしたい仕事をしているとは思わない。
自分がやりたい仕事を見つけることは、難しい。やりたい仕事も、やってみないと本当にやりたかった仕事かどうかも分からない。
 どんな仕事をしていても、その社会にはその人の役割と、人柄が生まれてくるだろう。そこでの役割自体には意味がないと思うが、そこで生まれた人柄がその人の働く意味になるのかもしれない。
 労働は、基本的につらいものだ。時間を切り売りしているのが労働者であり、人の命令を聞くのが労働者の本質だからだ。ただその中にいて、自分の人柄が、自分に満足できるものとして発揮できるのであれば労働に金銭以外の意味が見出せるのでないだろうか。
 ただ、働く意味をあまり考えすぎることも、控えなくてはいけない。最悪、働く意味が見つからなくて、働けないのでは、働くことを考え続けることもできない。