意味と私

  以前に生きる意味を考えた。で、今日は意味について考えよう。
  意味を考えろ。意味ねえ。何の意味があるの。意味について、日常でも自分がやっていることの意味を考える時がある。仕事に行く前には、働く意味について考える。簡単に言えば、働くのが嫌でそれでも働かねばならない。働くために自分なりの理由を見つけようとしている。自己合理化の作業をしながら通勤をしている。
  私は何故意味を求めるのだろう。そもそも意味とは何だろうか。昔にも一度考えたことがあり、その時は意味とは、対象における最も重要なものを意味するという文をどこかで見つけ満足していた。意味が何を意味しているかは面白そうだが、今回はこれを意味の意味としておく。私は何故、時間の意味から、生きる意味、働く意味、そのほか色々、何に対しても意味を求めているのか、この点をここでは考えたい。

  私は、世界を解釈しつつ生きている。あらゆる情報を解釈し、意味を考えずにはいられない。料理を見ても盛り付けの意味を見る。きれいに盛り付けられている。盛り付けが汚い。食べても意味を見る。味付けの良し悪し、美味しい不味い、これらは感覚と意味が相互的にミックスされた状態であるが、何かしらの解釈を意味を見ているように思う。私は、何かしらの解釈なしに、食事することもままならない。
  ここで、「人は何故意味を求めるのか。」に戻ると、「私は世界を解釈する。」という人のあり方に意味を求める原因があるのでないかと思う。人は、何を見ても、聞いても、感じるところがあれば、解釈をし、そのことについて分析を行う。「あついな」という言葉をきけば、その人を見て「暑いな」「熱いな」どちらの意味か考え判断する。生活の中に意味があふれており、意味を考えずに、又は行為に意味を与えずに行為ができない。電気ポットの意味を考えずに生活はできないし、掃除機についてもそうである。意味を考えずに過ごしているつもりであっても、私の行為は、自然に意味を有している。(これができないと生活不適応者となってしまう。他人から見て私の行為は無意味と思われることも沢山あるが。)
  意味とは、人の行為に、行為そのものにあり、行為と意味は切り離すことはできない。

  次に物には意味があるのだろうか。何かしらの意味が具体の物の中に存在しそうに思うが、物自体には意味は存在しない。例えば、自転車の意味を考えよう。個別の自転車、仮に私が所有する自転車「物体X」に意味が含まれているかを見れば、アルミと鉄とゴムで構成された物体Xがあるだけであって、仮に物体Xを切り刻んでみても意味というような構成物が見つかることはない。これは、自転車を知らない人に物体Xを見せても意味が分からないことから結論できる。
  私の物体X自体には意味がないのだが、私は物体Xを自転車と呼び、妻に自転車で出かけてくると言えば、意味が通じる。この様子を見れば、意味とは物自体にあるのではなく、人が物体Xに意味を与えていることが分かる。物体Xでは意味は物体であることとXと呼ばれていること以上のことは分からないが、物体Xを自転車と呼ぶことによって、物体Xに自転車としての意味を付与している。物体X自体に自転車の意味が含まれているのではなく、これを自転車と呼ぶときに、物体Xには自転車としての意味が与えられるのである。物にではなく、人の語に意味があり、語によって意味は構成されている。

  物には意味がなく、行為には意味がある。人は何らかの行為なしに生きることができない。思考そのものが行為であり、行為があるところに意味が生まれる。物の存在に人はなることができない。意味を求めないということは、人の在りようが、物の存在、物体Xのように言葉による解釈を使用しない、経ない在り方ということになる。何故、人は意味を求めるのか。それは行為が人として生きることの前提であり、行為を成立させるために意味を求め、この行為の在り方が、意味を求めるという姿をしているが故に、私は何事にしても意味を求めているのである。

  おまけ
  もし、この意味のない行為(為すという時点で意味があるが。)があるのであれば、意味を求めない生き方に繋がるが、仮に人が意味を求めない行為を探求した時には、それが本当に意味を求めない行為であるかは疑問である。もし、意味がない行為を行う(これも変だが)のであれば、探求することなしに即座に無意味でなくてはならない。
  この状態になると、もはや論理では追求できない世界であるので私には無理であるし、そのような世界があるとしても、私には夢のない眠りと違いがないようにも思う。

   生きる意味が分からないということは、私は自然に、当然に今、生きているので、その行為の連続が地と図の関係の地(背景)となり、生きるということを図として認識できなくなっているのだろう。これが当たり前でなくなった時、今まさに命が終わろうという時に生きる意味を図として認識するのかもしれない。そして、その時に、生きること自体が意味であり目的であると私は考えるかもしれない。 このことを実感する時は、私はどのような姿をしているのだろう。