世界の変化

  見た目に世界が変わった様子はないが、世界に放射能が撒き散らされた後に見る世界は、何故かどんよりとしているように見える。空や雲を見てもきれいだと思うことよりも、この空気の中に放射能が拡散されていると、世界中を小さな粒子が巡っていると思うようになった。毎朝、風向きを確認しているが、何となく、窓を開けるのが億劫になった。何か得たいの知れないものが入りこむような気がするからだ。
  この感覚は、私や、原発の問題を気に病んでいる人だけが持つものだろうか。街では、普通に生活が繰り返され、特に気にしている様子はない。
  そして、漁港の復興をテレビではさかんに伝えているが、海の汚染は漁が可能な状況なのだろうか。このことについてテレビでは沈黙しているようだ。いつかは汚染状況を調べなくてはならない。この海でとれた魚は安全、安心なのだろうか。汚染状況を調べないままに、魚を採る。このような状態で魚を買えるだろうか。
  今は、何も変化がないように見えているが、人や動物に影響が出てきた時は、もう遅い。その時に、対策をしても被曝が除去できるわけではない。
  私の子が、このような社会でこれから生きていかなくてはならないこと、私が子供の頃に持っていた世界への理解が異なってしまったことに何とも言えない気持ちがある。そして、また同じ事故、または今以上の事故が起きる可能性もある。

  何故、多くの人は見も知らぬ人を信用できるのだろうか。何故、事故を防ぐことができなかった実績のある人達の意見を聞いて、安全を信用できるのだろう。結果責任を考えれば、彼らが安全を口にすること自体が彼らの無責任を立証するようなものだ。 
  私は、悲惨な事故を起こしたバスの運転手に、「今度こそ安全ですからバスに乗って下さい。」と言われている。
  「今度はバスに安全装置を追加しました。バスの性能が違いますからもう安全です。もう一度ご乗車下さい。」と言われている。
  バスの運転手は、変わったのですか。と聞けば、「安全運転について研修済みです。ご安心下さい。」と答えるだろう。
  研修の先生は誰ですか。「はい。私です。ご安心下さい。」

  福島での事故が起きる前の私の世界は、単純に美しい世界だったと思う。この世界が過去のものになったことを惜しく思う。私が見る世界は、目に見えない不安に覆われ、世界が与える美しさは、限定的な美しさ、何かを差し引いた美しさとなってしまった。