道徳と倫理、そして空気

  小学校では道徳を学ぶが、倫理は学ばない。その後も、当人が選択しない限り学ぶことはない。
  倫理学は、行動の基準として何が正しいか。正しいとは何であるかを考える学問だが、ここでの倫理は、論理的に検証され議論を経て一定の結論が導かれる。倫理学でも道徳律という言い方があり、道徳と倫理に明確な区別はなされてはいない。
  ここで、私が、倫理と道徳を分けているのは、倫理学上のテーマではなく、日本の社会性を見る一面として切り分け、日本での言葉の使い方から切り分けている。

  倫理学は何が正しいかを議論する学問だが、日本人には権力以外の正しさという考えがなじみにくい。日本には天皇がいて、またその下に錦の御旗を持つ者がいる。旗を持つ者が正しいのであって、旗を持つものが何故正しいのか、少数派は何故正しくないのかという議論は少ない。錦の御旗の正当性自体についての議論はタブーでさえある。
  このことに由来しているのかは分からないが、そもそも議論自体や他者への批判を非難と解釈する人も多い。
  倫理学は、何が正しいかを議論のレベルで測ることができる学問であり、倫理という同じ土俵で争えば、少数派が多数派に勝つことも可能な、考えようによっては便利な道具でもある。倫理的な主張に対して、面と向かって反倫理的な主張をすることは難しい。逆に、これ故に日本になじまないのかもしれない。
  一方、日本で言う道徳は、倫理学で言う道徳とは少し違う。小学校でならった道徳は、算数のような規則性や体系ではなく、中学で数学となるような学問の基礎ではない。道徳では、差別はいけないことを教えるが、何故いけないかは教えない。本当に差別はいけないのか、何故いけないかを考え始めれば倫理学へと繋がるのだが、情緒的な気分で差別はいけないで終わってしまう。
  差別がいけないのは、悪いことだからであるが、何が悪いのかを考えなくては何が差別であるのかが分からないはずであるが、世の中には金持ちと貧乏人、多くの差別が存在し、合理的区別等々によって社会的に是認される差別も存在するが、これらをどう決めるか、考えるかは学ばない。
  これは、小学校の道徳だけに見られる特殊な問題ではない。日本の道徳の特殊性は、空気という決定機関によって、何が悪いことかが決まるところにある。この空気という決定機関はどこにあるか明確には言えないが、ないとも言えない困った存在である。この空気による決定機関とは、権力者の意思を皆が慮って予定調和的に物事を決めてしまう事態そのものである。空気によって決まったことは予定調和されているため、議論が起きず何故そうなのか、誰が責任を負うのかが分からない。
  原発事故についても、人災であると言われているが誰の責任かは今のところ明示されていない。重責任を負うもの全員のリストを作成すべきだと思うが、この重責任が分からないように巧妙に制度設計もなされている。このような事態になったのも、法律作成者が空気を読んで制度設計をした結果でもあるし、事故が起きたこと自体も、空気を読んで設計と施工をしたところによっている。
  原発事故に見られるように、空気を読むことは、論理的思考から乖離、逃避することに繋がるため非常に危険な行為であるのだが、逆に空気を読めないことは、日本では反道徳的な行為とされる可能性が高い。空気を読まないことは集団から除外される危険性を常に孕んでおり、空気に逆らうことは非常に勇気のいる行為となってしまう。クラスで一人で意見表明することが、恥ずかしいと思う学校社会が、日本の道徳をそのまま形成しているように思えてならない。自分が正しいと考えることを社会のため、自分のために表明することは、極めて倫理的行為であり賞賛に値すると思うが、社会的には反道徳的行為と受け止められ、村八分にされてしまう。
  日本では、社会的な行動は空気という道徳によって反明示的に沈黙のうちに絶対的になされ、個人には相対的な倫理(人それぞれに価値観があり、統一的価値観、倫理観が存在しない。)が存在するにすぎない。このため、個人の倫理という武器は、社会の道徳の前に役に立たないことが多い。このことが、日本に倫理が存在しない。または空気という絶対的な存在に対して相対的な倫理しか存在しないと言える理由である。

  空気を読むことの危険と、空気に対してどう処置するかは、その人の人生観、正義についての考え方そのものであって、正解と思えるものを強要できるものではありません。ただ、多くの人が議論ができる環境がない社会は危険性を孕み、失敗を繰り返すように思えてなりません。

空気については、山本七平氏の「空気の研究」の考えによるところが大きいので記載しておきます。
空気について気になる方は、一読をおすすめします。