学びというもの

  君が代条例が大阪府で可決された。ここで君が代の是非は問題にしない。
  問題は、学びの中での強制が、本質的に役に立つかということだ。
  私にも親に言われて勉強をしたという記憶はある。一定の強制がなければ学習が成立しないという考えはある。しかし、強制で学習は成立しない。強制で学習が成立するならば、親の強制力の強さで子供の頭の良さが決まることとなるが、実際にはそんなことはない。
  学校での勉強に限らない「学び」という行為、生活における発見、学習は、強制の中で生まれるものではない。自発的な行為の中で学びが生じるのであって、ノルマによる作業の中に学びはない生じない。
  これは、職場でも、単純作業の中であっても、自身の工夫が生じた時に初めて学びという行為が生じる。私が、何かを学ぶ時、その時に他者の意思の強制が含まれている場合、この時に私は学びを行い得るだろうか。
  他者による強制は服従であって、学ぶという行為と本質が異なる。服従することを学ぶ場合、これはその人が処世という工夫を、強制された行為とは別に学んだのである。強制や服従の行為の中に学びは生じない。
  私は、学びということについて、他者への恐怖があってはならないと思う。恐怖の中に思考しても正しく考慮することはできない。恐怖が判断を誤らせることは自明のことだと思う。福島原発の事故は、恐怖から目をそらした結果が今である。恐怖が沈黙をもたらし、議論を停滞させる。反対意見を出した人を黙殺していく。システムの中で恐怖の力が働く時、人々の間に誤りが増幅していく。
  今、学びの機会の中に強制を持ち込み、教師が何を伝えるのか。
  恐怖により人が教えることは、形式を整えること、外見を整えて、内面は隠すこと、処世を伝えることとなるだろう。
  このような教えを学校教育の場で受けることが、子供達のためになるのか分からない。教師が自身を鏡として、恐怖と沈黙という不幸なシステムが社会に機能していることを子供達に教える結果が良いのか分からない。
  教師の目的が、教科書の知識を提供する一機関にすぎず、教師は取替え可能な部品という考え、条例に反する教師は処分し取り替えるという行為は、全体としての教師をだめにするだろう。後に残る教師は取替え可能な教師であり、教師と言う集団は均質な集団となり、議論のない集団と成り果てる。
  この取替え可能な教師のもとで、教育は取替え可能な部品のマニュアル化された生産過程になるだろう。

  社会として、恐怖のない環境での学びということは理想に過ぎないのだろうか。
  恐怖なく考え、与えられる恐怖について考える。これが学びだと思う。