日本の道徳というもの

  山本太郎が反原発発言のせいでドラマから外されたとニュースがあった。彼の言動が、スポンサーの気にいらないものだったようだ。彼の言動に反社会性があるとは思えない。むしろ社会的行動の結果が干されるという状態を招いている。日本では、社会的行動は望まれない。社会的行動をする者は、活動家であり、主義者である。
  学校教育では、表のメッセージとしては、正しいことをするよう要請される、しかし、裏のメッセージでは社会的に正しい行為(おかしな校則を変えようとしても誰も相手にしない。論理的な正しさは基準にならない)をすることは望まれない。
  アメリカの映画では、一人で正義を貫き、最終的に社会の理解を得て人を助けるというパターンがあるが、日本映画にはない。日本で同じことをすると、理解されず煙たい奴という雰囲気しか生まれない。
  山本太郎は、煙たい奴の認定を受けたのだろう。一人の煙たい奴を作ることは、次の煙たい奴の発生を防ぐ効果があるのでとても大切だ。
  日本に道徳はあるが、倫理はない。日本の道徳で正義の問題はない。日本の道徳は共感の問題である。皆と共感できる、煙たくないことをすることが、日本の道徳である。正義の行いをすることは、倫理的行為であるが道徳的行為ではない。倫理的に正しくとも、煙たい場合は、日本では正義ですらない。
  日本で道徳的であることは、煙たがられないことである。この点、山本太郎は日本の道徳に反したので、道徳的制裁を受けたと言える。
  原発事故の発生は、まさに日本の道徳の中で発生した事故である。煙たい奴を徹底して排除し、冷遇をしてきた。日本は民主的国家であるので、煙たい奴は意見は言えるが決して敬意をもって遇されない。
  日本の道徳でない意見を言った者、正義を観点とした倫理的意見を言った者は冷遇される、社会は彼に見せしめとし惨めさをかみ締めさせる。そうしない者は、同罪、同調者とされてしまう。
  私の住む国は、何と貧しいのだと思う。正義についての本が売れても実践はない。正義についての講義は放送するが、正義を叫ぶものを出演させることはない。この国の道徳は、均一であることだ、大きな力に逆らわない方が良い。
  今や、大きな力が間違っていることが歴然としているのに、その力に誰も対抗できない。原発村での出来事は、日本の戦争の失敗と共通点が多い、間違いに気づいた者は沈黙させられる。皆がおかしいと感じても、力を持つ場、空気の前に誰も声が出せない。自分の利益を守りたい。そして破局となる。
  テレビでは相変わらず馬鹿な番組をやっている。
  スポンサーが提供してくれる馬鹿な番組を見るために、私は馬鹿なコマーシャルを見て、最後にはスポンサーが提供してくれる放射能を受け入れなければならない。